原作は10年以上前に読んでいたのですが、評価が高いというアニメの方はずっと未見だったのを今更鑑賞。
圧倒的な音楽の素晴らしさ、鎌倉のロケーションを生かした演出、毎エピソードの終わりに〝引き〟を残した脚本の巧さ…なぜ今までみなかったー!!と大興奮。
漫画原作は2002年〜2005年に週刊ヤングジャンプで連載され全12巻で完結していますが、アニメの放送は2004年…と原作完結前の制作のようで、7巻までの内容を脚色しているんですね。
自分が漫画を読んだきっかけは冨樫義博が「HUNTER×HUNTER」のアリ編はこれに影響を受けているらしいと聞いたからなのですが、かっ飛ばしまくった第1話から心を鷲掴みにされてしまいました。
ジャンルとしてはSF要素のある物語で、主人公の女性・ルーシーは、人間の遺伝子の突然変異で生まれた新人類(ディクロニウス)で、頭に2本の角とベクターと呼ばれる透明な腕で物を動かせるという特殊能力を持っています。
旧人類を滅ぼすであろう新人類…いってみれば「X-MEN」のミュータントのような存在ですが、「一体1話で何人死ぬんだ!?」という大虐殺が冒頭から繰り広げられ、(何か事情があるにせよ)こんなに業の深い主人公が救われるのか??ものすごく引き込まれました。
そしてアクシデントからこの主人公の人格が分裂し、純粋無垢な人格へとバトンタッチしたところで第1話が終わります。
善の人格は極端に知能が低く、幼児返りしたような人物。
多重人格モノにもなっているストーリーですが、主人格が差別やいじめを受け孤立して生きてきて、どれだけ辛い目にあっても人と仲良くしたいという思いを捨てられなかった…それがこの赤子のような人格になって現れたのだと思うと切なさが込み上げてきます。
別人格になった主人公はある男の子のところに身を寄せ、人と関わりを持つことで自分の居場所を獲得していきますが、人類を脅かすウイルスの主でもあることが次第に判明し、異端な彼女を排除しようとする対立陣から追われます。
「異なる存在は共存できるのか」…萌え絵っぽい見た目からは想像できない重々しいテーマ(&スプラッタ描写)。
全体でみるとアニメの方がいいという点が多々ありつつ、ラストに関しては原作の方がよかったなあ…と、どちらも余韻の残るものでしたが、少し比較してみたいと思います。
◆アニメのラスト
漫画を先に読んで刷り込みもされてたからか、最終話で記憶を取り戻したコウタのルーシー受容が随分アッサリしているように感じました。
「カナエと父さんを殺した君を許せない。」(といいつつ)
「子供のときの寂しそうな女の子もにゅうも僕は大好きだから。」
「君だって、君だってさ、たくさん悲しい思いしてきたんじゃないのか。」
コウタの器がでかすぎる!!父親と妹が殺され、さらには他の人間も殺戮しているところを目撃しながらも、こんなにすぐ相手への理解が及ぶものかなあと思ってしまいました。話数の関係もあって仕方がないのでしょうが…
ただオープニングにもなっている「Lilium」の音楽が圧巻で、キス・抱擁・涙を伏線のように回収し、居場所のなかったルーシーを最後に受容してくれる存在がいた、ゆるしの願いが届いた、という救済感が押し寄せてきました。
そしてルーシーは死にに行くかのように去り、折れた角と弾丸の雨…。
原作でも角が折れた後はにゅう化していたこと、ナナには「私にできないことをお前にしてほしい」と言葉を遺していたこと、にゅうの直そうとしていた時計が最後に動き始めたこと…ルーシーだけが死んで、にゅうだけが戻ってきた…8巻以降のにゅうのように、これから「言葉も覚えて人として生きていく」…のかなあと思いました。
13話という短さで上手くまとめたと思う反面、コウタとの和解があっさりしすぎなのと、ルーシーが救われたようで人格が違えば罪はないっていう線引きが曖昧だなあ…と思ったりして、ちょっとスッキリしない感がのこりました。
◆原作のラスト
対して原作の方は…
「どんなに謝られてもカナエと父さんを殺したお前を許すことはできない。」
「お前がいなくなったらにゅうまでいなくなってしまう。」
まずコウタの態度がルーシーへの許しが一切がないという大変厳しいもので、こっちの方が俄然説得力がありました。
その後…コウタを庇い身を投げうって修復する選択をしたのはルーシーのはずなのに、ドロドロに溶けたあともコウタは彼女をにゅうとしか呼ばないし、にゅうの回想しか思い浮かべない。
「共存したいが相手の一部分しか認めない。」という頑なな姿勢は、アニメ版の全てを受容した姿勢と大きく異なっていると思いました。
そして暴走する本能からコウタたちを守ったルーシー(とにゅう)は身体が溶けて苦しみ、コウタに命を終わらせてもらいます。
「私がもし他の誰かをたくさん殺すようになったら私を殺してほしい」という台詞をきっちり回収しているところ、にゅうがコウタ1人だけでなく楓荘のみんなに看取られたところがやはりいいなと思います。
そして最後の最後、心の中で幼いころに戻ったルーシーとコウタが交わした対話のところで、ようやくコウタはルーシーの想いを受け止めることができたのだと思いました。(そのあとのごめんね…の台詞はルーシーに向けている気がしました。)
続く最終話「大団円」は、死んだと思っていたキャラクターが生きていたりして、幻のような不思議な空気の漂うエンディングです。
10年間、夏祭りの日はルーシーの最期にのこした言葉を思い出して約束の場所に出向いていたコウタ。
子供時代のコウタって…異性として好きだったのはユカで、ルーシーとはあくまで友達って認識だったんですよね…。
友達(ルーシー=楓)と約束を果たせなかったこと、ルーシーに一緒に遊ぶ相手が男の子だと嘘をついたことが悲劇の発端になったことに心残りがあったのかなあと、10年のあいだのコウタの想いを色々と考えてしまいます。
「ずっと会いたかった友達に…やっと会えたんだ…」
ルーシーの手紙をみつけてさらにルーシーとにゅうの生まれ変わりのような双子が現れる。
この双子の親が誰なのかは見当がつきませんが、角がリボンで隠れたディクロニウスなのだと思います。
最終話の冒頭で、「角の生えた子供が産まれる奇病が世界中で発生してWHOが出産禁止令を出した」の説明がほんの3コマほどありましたが、角沢が東京にウイルスを散布したのと、ルーシーの本能が暴走して世界を破滅してやる!!とベクターを伸ばしたときに、彼女自身も世界中にウイルスを散布させたのかなと思います。
ワクチンができてもその前に生まれてきたディクロニウスの子供たちはどういう処遇になったのか…殺されたのか、隔離されたのか、放置されたのか…。
希望的観測ですが、ルーシーとにゅうの意識が働いて生まれてきた子供たちは3歳になっても本能の声を発動せず、見た目の違いはあるけどうまく生活してる…だといいなーと思いました。
なんとなくコウタとあの双子の再会は、ルーシーとコウタの、そして新人類と旧人類の「和解」「共存」を感じるエンドで、憎しみが次の世代に残らないようにという、願いを感じさせるハッピーエンドのように思えました。
最後の最後にコウタがにゅうだけでなくルーシーのことも受け入れたというところは、結果的にはアニメと同じなのですが、やはり「あれだけの虐殺もしたルーシーがにゅうとともに一度死んでいる」ところが因果を終わらせていてスッキリしているように思います。
「生まれ変わってまた好きな人に会いに行く」という輪廻転生の世界観は、個人的には好きなストーリーではないし、SFとしても荒唐無稽ですが、ボーイミーツガール的要素のこの漫画には、上手くハマっているように思いました。
ラストは原作の方がよかったけど、アニメの方がよかったー!!というところもたくさん。
蔵間室長の幕引きはマリコと一緒に散るアニメの方が感動的でした。
漫画はマリコのクローンが結局全員死んでしまうのも辛かったので、お父さんに抱きしめられたマリコの束の間の幸せをみれてよかったです。
原作最終回での「蔵間が絵描きの少女の生存で嘘をついていた」ことが分かる1コマは結構な衝撃でしたが、それだけ全ての元凶であるディクロニウスを憎んでいたんだなあ、憎しみが連鎖する、ルーシーの因縁の相手として蔵間は重要なキャラだったんだなあ、とアニメでも漫画でも魅力のあるキャラクターでした。
「エルフェンリート」は海外でも評価が高く人種差別を描いているとも言われるみたいですが、生まれてきた子供に自分と異なるものがあったら…どちらかというと障害や病気のことが胸をよぎります。
こんなすごいドラマと女の子が胸を揉みまくる理解不能なエロシーンが同居しているというのが完全に狂気の沙汰ですが、刺さる人には刺さる…でもアニメの方が無意味なエロシーンなどは少なくとっつきやすい感じがしました。
それにしても賛美歌スタイルでせめた圧倒的オープニングの力…!
Elfen Lied Opening Lilium Official Audio
両方とも読んで&みれてよかったなあと深く余韻の残る作品でした。