ニュースなどで何か事件があると「犯人は真面目で大人しい人でした」と報道されているようなことが時々あって、大人しい村の住民である自分は「大人しい奴のネガキャンやめてくれや、もし犯人がパリピやったら『犯人は賑やかなパリピでした』ってちゃんと言ってくれよな」などと下らないことを考えていました。
「わらの犬」は大人しいやられっぱなしだった男がゴロツキどもを一網打尽にするというようなストーリーで、暗さもありつつどこかカタルシスも感じてしまう作品です。
主人公が好意的に描かれているかというとそうでもなく、「主人公が楽な方に逃げてコミュニケーションを怠ったためにこういう結果になってしまったのだ」と思わせる節もあります。
数学博士のデイヴィッドは争い事を好まない平和主義者です。
しかし教会の牧師が家を訪ねてきた際には「俺の方がインテリとしては格上」とマウンティングでもするような横柄な態度をとったり、妻の飼い猫に果物を投げつけるなど「逆らってこない相手」には自らも暴をぶつけている…ダブスタ人間の一面もあります。
この鬱屈した主人公には同情的な要素もあって、彼が引っ越してきたイギリスの田舎町は閉鎖的でモラルが低い何とも嫌な感じのする町です。
ある日デイヴィッドが酒場を訪れると、店主が「閉店だ」と言っているのにゴネて暴れては自分の要求を無理矢理押し通すジジイに出くわします。
ジジイを見るデイヴィッドの眼差し…「俺はあんな程度の低い野蛮人じゃない」という見下しもあれば、「傍若無人に振る舞って自分のエゴを突き通す者への強い羨望」もあるように思えました。
自分も普段からこういう気持ちを持っていて「感情を溜め込みやすいタイプ」のデイヴィッドはすごく共感するキャラクターです。
妻エイミーの故郷である田舎町で暮らし始めたデイヴィッドは家のガレージ修理を妻の顔馴染みの男連中に依頼することにしました。
しかし彼らは碌に仕事もせず無礼な態度をとってきます。
日曜大工も出来なければ車の運転は下手くそ、背が低くて“男らしさ〟に欠けたデイヴィッドはこの町のゴロツキたちにとって嘲笑の対象でしかありませんでした。
ある日悪質なイタズラで飼い猫が殺されエイミーに「あなたから猫のことを訊いて」と言われても事なかれ主義のデイヴィッドは相手にへり下った態度をとってしまいます。
これを契機に「何をしてもいい相手だ」とますますナメられたのか、嫌がらせはエスカレートし挙句不在時に妻がレイプされてしまいます。
一方だけが我慢していると相手はどんどん増長してさらなる不利益を被ってしまう…こういう光景はどこにでも転がっているものでその理不尽さが突き刺さります。
一方このデイヴィッドが「逃げの人間」で、イギリスに越して来たのも「暴力的なアメリカに嫌気が刺したから」は建前で本当は上手くいかないことから逃避してきただけなんだろう…研究部屋に篭りきりでギクシャクし始めた夫婦関係にも見て見ぬふりな姿をみると、コミュニケーションを極端に怠ったこともこの結果を招いた一因だったのかもしれない…と思わせます。
「礼儀正しく振る舞っていればそのうち相手はこっちに好意を向けてくれる」…根拠なき無言の期待で行きたくもない狩りに出かけた姿が痛々しく映ります。
もっと早い段階で怒りを伝えていればああまではならなかったのかもしれない、町の少佐など誰か仲介者を入れて周りを巻き込めばよかった、或るいは早々に町を出ると決めていれば…様々な違う可能性もよぎります。
そしてある晩町でさらなる事件が起きて、デイヴィッドはゴロツキ共から追われることになった知的障害者のヘンリーを家に匿うことになります。
話すスキルもなければ信じてもらえる土台もないヘンリーは本物の弱者です。
田舎町に退屈している軽薄な女子が気晴らしに彼を誘惑したため思わぬ悲劇が起こってしまいました。
(監督者である兄から「殴られる」…)
ヘンリーが無意識的に引き起こした暴は過去に振るわれた暴力への恐怖心から来たものです。
そしてまたヘンリーの兄が弟に振るった暴力も町の人たちの差別という暴を恐れるが故に振るわれたもので、哀しい負の連鎖が描かれています。
デイヴィッドはこのヘンリーをリンチしようとやって来たゴロツキたちを家から締め出しました。
法を守る者として行動しなければというまっとうな規範意識…そういったものもあれば同じく「弱い男」として見下されているヘンリーと自分が重なり「もうあいつらのいいようにはされないぞ」という男の矜持がここで芽生えたのではないかと思います。
ここからのダスティン・ホフマンの攻勢が凄まじく、常人ならパニックになりそうな状況下で、実に冷静に判断を下しながらゴロツキたちと対決していきます。
「戦争のはらわた」で女子供に優しいジェームズ・コバーンがいざ戦場に出ると最も人を殺すことに長けていたように、この主人公もまた凄まじいギャップをみせます。
油を沸かした鍋なんていう殺傷能力の高い武器を咄嗟に思いつくのにはビックリしますし、少佐が撃たれた直後から「3人とも消される」と一気に腹を括ったようになるのも冷静です。
そして「大人しい人間が傍若無人な野郎どもを叩きのめす」という展開に仄暗いカタルシスを感じてしまいます。
襲撃の最中デイヴィッドは妻エイミーとも対立し彼女にも暴力を振るいました。
まるでタイプの違う2人でこのカップルのやり取りをみると「夫婦というより父娘」ですが、エイミーが男性に父性を求めるタイプで、落ち着いた年上父親タイプにみえたデイヴィッドとは相性が良かったのかもしれません。
エイミーがあれだけ抵抗していたレイプの最中に突然相手を求めるような仕草をみせたのも(夫の情けない姿が何度もインサートされる)、デイヴィッドに父性が欠けていることに絶望し瞬間代わりの存在を求めてしまったが故に思われます。
身勝手で依存的にも思える行動ですが、彼女が育った村は夫に付き従う牧師の妻などをみても男女の役割がはっきり分かれています。
エイミーは軽率な点は多々あれど「異常にふしだらな女」などではなくごく普通の女性ではないかと思いました。
凄惨な体験をしたあと、夫の思わぬ強さに再び惹かれて共犯者として絆を深めるのか、理解し難い存在だと距離をとるのか…彼女の表情には何とも読み難いものが残りました。
そしてラスト、「帰り道が分からない」と言ったヘンリーに対して主人公が「僕もだ」と答えたところで映画は幕を閉じます。
暗いエンディングであることには違いなく、暴力で対抗するしか解決できないような状況に主人公が追いやられてしまったこと自体、とても悲劇的です。
だけど人と人とがぶつかって理解し合えないときというのはどうしてもあって、最悪を避けるために低い期待値で相手に対処するか距離をとったりして行くしかないんじゃないだろうか…
この世に確かに存在している理不尽な暴力の存在と自分の中にもある暴力性を認められた主人公は一皮剥けた人間になったんだ…真実味を感じるラストには不思議な安堵感も残りました。
低予算で撮られているのにどの登場人物にも無駄がなく、ダスティン・ホフマンはもちろんスーザン・ジョージの演技も改めてみると素晴らしかったです。
完成度の高い、凄い良い映画でした。