どうながの映画読書ブログ

~自由気ままに好きなものを語る~

「エマ」夢の水晶宮…一生に一度のこと/美しい夫婦の特別な思い出

乙嫁語り」の森薫先生による、ヴィクトリア朝のイギリスを舞台にした漫画作品。

20年位前、秋葉原メイド喫茶ブームがあった頃、メイドが主人公らしいこの漫画が本屋さんで大きくディスプレイされているのを発見。

これがもしかして火付け役!?ジェーン・オースティンの少女漫画版みたいなやつ!?と気になって漫画喫茶で手に取ってみることに…

 

メイドと良家の御坊ちゃまの身分違いの恋を描いたストーリー。

リアルさを突き詰めた歴史ものでは決してありませんが、イギリス時代劇ものの良さげな雰囲気。

作者のこだわりを感じさせる女性の衣装や肉体の描写、美麗な絵で表現される貴族社会の風景など、世界観に魅せられます。

美人ヒロインに周りが優しすぎる気がしたり、恋人役の男が軽率に思えたり…残念ながら自分は主人公カップルにそこまでのめり込めなかったのですが、2人を取り巻く周囲のキャラクターが魅力的。

なぜ2人の恋を応援してくれるのか(或いは反対するのか)、それぞれの人のドラマがみえてくるところが好きでした。

 

全7巻で本編が完結したのち、8・9・10巻が番外編というかたちで出版。

サイドキャラクターたちの過去やその後が取り上げられていて、自分は本編よりこちらの読み切りエピソード集の方が俄然好みでした。

中でも8巻に収録されている「夢の水晶宮」というお話が圧巻。初めて読んだ時には漫画喫茶の個室でボロ泣き(笑)。

「夢の水晶宮」で描かれるのは、主人公エマが仕えていた老女・ケリーの若かりし頃。

18歳で結婚し、20歳で寡婦に…以降30年余りは貴族の坊ちゃんを教えるガバネス(家庭教師)に。

一見厳しそうな人にみえるけれど、実は優しく、孤児だった主人公を救ってくれた恩人。

そんなケリーの新婚時代の一幕を描いたエピソードで本編の伏線を回収するかたちにもなっていますが、この短編だけでも完成された仕上がりになっていて至極シンプル。

強烈なビジュアルで迫ってくる圧巻の60ページでした。

 

◇◇◇

ロンドン万国博覧会が開催された1851年。

来場者は約600万人、当時のイギリスの人口の3分の1が訪れたといわれる空前絶後の大イベント。

街は多くの人で賑わっていましたが、ケリーとダグの夫妻は日々の生活に必死。

一大イベントに興味津々のダグに対し、ケリーの態度はそっけなく極めてクール…かと思ったらやっぱり少し気になっている様子。

しかし2人の生活には、2シリングの入場料を工面する余裕もありません。

 

もうすぐ博覧会は最終日。

ダグは病欠の仕事仲間の作業を担うことで1シリング余分に稼ごうとしますが、当てが外れて目標額には届かないまま。

ところが「興味がない」と言っていたはずのケリーが、自分の夕食を抜いて食費を節約、こっそり入場料を用意していました。

O・ヘンリーの「賢者の贈り物」が頭をよぎるようなストーリー。

愛する奥さんをお祭りに連れて行って楽しませてあげたかった夫と、夫が喜ぶと思って密かな献身をみせた妻と…心が洗われるような気持ちになる美しい夫婦愛。

明るく無邪気なダグとクールでちょっとツンデレなケリーという、2人の組み合わせがまた最高。

厳しい生活が垣間見えるも、これまでの本編と打って変わった庶民世界の描写に活気や親しみも感じて見入ってしまいます。

 

2人はなけなしの2シリング8ペンスを持って博覧会へ…ここからは美麗な絵が圧巻。

鉄とガラスだけで作られていたという一大建築物の迫力。室内にある巨大噴水の美しさ。そこに光が降り注ぐ様子まで見事に絵で表現されていて、こちらまで高揚感に包まれます。

 

世界の宝飾品コーナーをみにいくとギラギラした眼差しの女性たちが…ダグが「こういうの欲しい?」ときくと「別に」と返すケリーが現実路線で素敵(笑)。

当時の最先端の機械、室内に緑の木々がある異空間…過去の世界の展示会場にこちらもワクワク、ステンドグラスの廊下がロマンチック!!

 

博覧会に来たかったというダグだけど、目線の先は常にケリー。

(彼女しかみてないww)

愛する人が嬉しそうにしているのが1番幸せ…尊すぎる2人の姿に悶絶!!

ラブラブの2人はどこにいたって幸せなのかもしれないけど、ここでしか味わえない格別の経験というのはある。

「一生に一度のことだろ?」…ダグの先の台詞が胸に突き刺さります。

 

帰り道、「せっかく来たから記念に何か買って帰ろう」とケリーに言葉をかけるダグ。僅かに余ったお金で妻が選んだものは…

ここから時間軸は現在へ…落ちていたお土産の指ぬきを見つけて拾うエマにジャンプする場面転換が映画的。

そこに年老いたケリーのナレーションが入り、この翌年にダグが亡くなったことが知らされます。

「流行病だけはどうにもならなかった。そういう時代だった。」実にあっさりとした幕引き、この喪失感たるやもう。

当時の平均寿命は今よりもずっと短く、死はもっとありふれたものだった…そういうものだと分かっても、あの美しい夫婦のデートシーンのあとに事もなく語られるこの落差に言葉を失います。

 

「思い出すのは楽しかった記憶ばかりだ」残酷な死と何人にも奪えない美しい生の輝きの両方が一気に迫ってきてエモーショナル。

家族とのお出かけ、楽しかったデート、友達と思い切り遊んだ日…心に残る思い出は誰しも何か持っていて、そのときには特に何も考えていなかったけど、あとになってそれがどれほど尊い時間だったか分かる…

年を重ねるごとに、このエピソードの持つ煌めきと切なさがより一層胸に沁みます。
 

未亡人となり子供はおらず、以降の30年間家庭教師(ガバネス)として勤め上げたケリーの人生は決して楽なものではなかったことが察せられます。

でも仕事にやりがいを見つけ、恵まれない子供に手を差し伸べ、主人公たちの身分差恋愛をそっと後押し。

彼女がこうした優しさを他人に見せることができたのは愛する人との幸福で豊かな思い出があったからなのかも…

鋭くあたたかい眼差しの老ケリーと、若き日のしっかり者ケリーの姿がぴったりリンク。

夫婦の愛が時間を超えて次の世代の恋人たちを繋げていく…本編エピソードと併せて読んでこその楽しみもあって、番外編としてもとてもよく出来ていました。

 

「エマ」は歴史ものドラマというより時代劇ファンタジーな作品かと思いますが、この「夢の水晶宮」のエピソードは、一時代が去って移ろっていく寂寞感のようなものも後に残って圧巻。

指ぬきを映し出しての最後の一コマまで美しく、過ぎゆく時代の壮大さ(マクロ)とそこに生きた人のドラマ(ミクロ)が一体となって胸に迫ってくるような、何とも言い表しがたい迫力。

ほんの60ページ余りの短編ですが、高い完成度に圧倒されました。

 

使用人サイドのドラマなど8巻以降の短編エピソードの方が好きだったのですが、この「夢の水晶宮」はここだけ何度も読み返すほど特にお気に入りで、読むたびにいつも涙腺が崩壊。

尊い夫婦の尊い時間がずっと胸に残っています。