「コレクター」というタイトルの映画作品は、大変ややこしいことに複数あるようなのだが、ウィリアム・ワイラーが監督した1965年の「コレクター」は紛れもない傑作だと自分は思っている。
モーガン・フリーマンが出演していた1997年の映画の記憶が強い人が多いかもしれないが、モーガンの「コレクター」に出てくる犯人像は「美人女性をたくさん監禁して自分の好きなようにする」という、サイテーな奴が犯人、且つ、メッチャ浅い人物像でしか描かれていなかったと思う。
それに比べ、65年の「コレクター」はもっと人物描写が深く、病みまくっている。
主人公の男性はフレディという、蝶の標本集めが趣味の、内気な銀行員。
彼はある日、計画立てて、ミランダという女性を誘拐し、監禁する。まるで欲しかった美しい蝶々を捕まえるように…。
しかし、彼はミランダに触れようともしない。彼の願いはただ一つ、生活をともにして「自分のことを理解してほしい」というもの。
承認欲求が、1人の女性に全て注がれるという異様さ。
しかしミランダはとても頭のいい女性で、フレディの上を行き、ときに交渉し、隙を伺い、脱出をはかろうとする。しかし思わぬ展開が待っていた…
この「コレクター」、映画版の出来もいいのだが、原作がもっと凄まじい。
今回は原作の方の感想に重きをおきつつ、ダラダラと語ってみたいと思う。
成金ボッチ男・フレディ
こういう大人しい性格の孤独なキャラクターに私は同情したり、共感することが多々あるが、こいつは許せない。
前述のとおり、フレディは蝶の標本集めだけが趣味の25歳の大人しい銀行員だったのだが、ある日宝くじが当たって、さっさと仕事をやめてしまう。
たまに見かける程度の面識のない女性・ミランダに一方的に恋をして、地下室付きの家を購入し、彼女を誘拐・監禁することを決意する。
その白昼夢のなかでは、ぼくは小説の主人公のように彼女に出逢い、何かすばらしいことをやって彼女に愛され、しまいにめでたく結婚ということになる。
そこに軟禁しておく。彼女はだんだんとぼくを知り、ぼくを好きになり、そのあたりから夢は2人の生活の夢になる。モダンな家、結婚、子供達、などなど。
「コレクター」(上巻)ジョン・ファウルズ著 白水Uブックスより抜粋
このあたり、何度読んでもゾワっとする。
相手女性に抱く一方的な理想。次第にそれを現実と混同して、取り返しのつかないところまで来てしまう。
そして彼がミランダに惹かれたのは外見がいいからという、それだけの理由なのだ。人生で何の対人関係も築かなかったために、人の内面については一切想像することができないのだろう。そして「美しい彼女を囲っている自分は周りからうらやましがられるだろう」などと密かに夢想している。
対内的、対外的にも、自己存在の意義をすべてミランダに押し付けようとする歪んだ人物であきれてしまう。
しかしそんなフレディはミランダを監禁しても、肉体関係は求めない。
「イヤー、ここまでしといて、それはないでしょ。」「下心ありありなのに、プライド高すぎて欲求認められずに理屈こねるとか、余計にクズにみえるわ。」などと思いながら、前半読んでいた。
しかし、フレディは現実として性的不能であった。
性的な関係は一切望んでおらず、精神的に自分を認めて欲しいというのが、嘘偽りない、彼の欲求なのだ。
フレディには、両親がいない。世の中を憎んでいるようなクセのある伯母に育てられ、自己を抑圧された環境にいたと思われる点は気の毒に思う。別に性的に自分を解放できなくても、生きていればなんらかの方法で人との関りを得られると思うのだが、こんなにも歪な方法でしか人に接することができなくなったのは怖い。
「外に出掛けたら皆が自分を見下しているように感じる」「(わけもないが)明日からはなんか上手くいきそうな気がする」…随所にあらわれるフレディの”幼さ”が痛々しい。
過剰な自意識は誰もが持ち得るものだ。自分にも大いに自覚がある。フレディは意外に身近な人物である。それが転がり落ちるところまで落ちていくとこんなにも残酷で醜悪な人間になる…というのが怖い。
インテリ左翼の女性・ミランダ
対するミランダは、フレディの比較にならないほどの「意識の高い女性」である。
監禁当初、ミランダの頭の良さに驚愕し、怒られた子供のように萎縮してしまうフレディが滑稽だ。
60年代イギリスの若い左翼層の気骨に驚かされる。
自分はこのミランダが大好きだが、彼女の「嫌なところ」もさりげなく綿密に描写されているところがすごいと思う。
ミランダ独白の前半部分を読むと、どこか「自分は特別」と人を見下したような意識が垣間見える。理想を高く掲げている反面、自身にはその主張と相反するようなところもあって、決して完璧な人物像ではない。
だが、奇しくもミランダは、この監禁生活をとおして、そういった自分の内面に気付き、(まるでさなぎが蝶になるように)より高い意識へと昇り詰めていく。
彼女本来の、心優しく知性溢れた内面が、監禁という状況下で研ぎ澄まされてしまう。
ミランダがフレディと原爆について議論しようとする場面にて…。ミランダは知り合いのデモ隊が”原爆賛成派のアメリカ軍人”に出会ったエピソードを思い出して、これをフレディに語る…。
デモ隊の人たちはそのアメリカ人にむしろ好感を抱いたことに気が付きはじめたというのよ。なぜかというと、自分の意見に対するそのアメリカ人の考え方が強烈で、誠実だったから。(略)ほんとうに肝心なことはただ1つ……自分の信じているものを感覚的にとらえて、その信念に生きることなのよ。
「コレクター」(上巻)ジョン・ファウルズ著 白水Uブックスより抜粋
20歳でこんなことをいえるなんてスゴすぎる。
”自分と同じ考えをしないことではなく、考える力をもたないことを軽蔑する”という彼女のメッセージは突き刺さる。(フレディには全く刺さらなかったが)
絶対に理解できない人間がいる
男性と女性…下流層と上流階級…物質主義と精神主義…無神論者と信仰者…「コレクター」の2人は色々なものに対比される。巻末の解説を読むと、「ミランダはナチス政権下での強制収容所の人たちに類する」と見解する人もいるようだ。
難しい解釈はさておき、個人的にはもう、「何一つ理解しあえない人間がいる」という、シンプルなメッセージに尽きるのではないかと思う。
人間そもそも自分のことしか理解できないという考えは、前提として私自身が持っているものだ。
しかしそれでも、他人と接することで新たな視点を手に入れたり、他人に心を寄せたり、全部ではなくとも部分部分のどこかで共感したり、喜んだり悲しんだりすることはも、人生の醍醐味だと思う。
フレディとミランダは、どれだけ長く、2人だけの世界で生きていても、何一つ思いを重ねることができない。それがこの作品では、怖いというよりも、悲しいものとして、描かれていると思う。
ミランダのすすめる絵画や文学に触れても、何一つ理解できず、「あなたたちインテリはこういうのをいいって言ってりゃ賢いと思って。」と、 卑屈な精神で非難するフレディ。
フレディが装飾した家具やインテリアを悪趣味で知性のかけらもないと、見下し軽蔑するミランダ。
どんなに努力しても、何も共有できない人間がいるというのは、とても悲しいことだ。
第3の男・GP…肉体関係のない男女
「コレクター」は、前半がフレディの独白、後半がミランダの独白…と、2部構成になっているが、2人の意識の差を比較する構成が面白い。
そして2人だけの密室劇と思わせて、ミランダの回想の中で、”第3の男”が登場する。GP(ジーピー)とミランダの日記内で呼ばれていて、彼女が実は、20歳も歳の離れたこの年上の画家に恋慕していることが明かされる。
GPはそこそこ著名な芸術家らしいのだが、政治思想などもミランダよりもさらに極端だ。
「労働者はみんな豚だ。」と発言し、自分の嫌いな人間には容赦ない態度をとる。実は”結婚して子供を産む”というごく普通の未来を描いているミランダに対し、「君は子宮をとってしまえ」などと言う。(”この俗物め”ということだろうか)
芸術家とよばれる人は、人と感性が異なるからスゴイものを創造できるのかもしれないが、自分は「うわあ、こんなおじさん無理~」と思いながら読んだ(笑)。
だがGPが「イギリスという国家の消失を危惧する」人物なのは、今になって興味深い。予言者みたいだ。
さてさて…自分には、このGPとミランダの男女関係がよく理解できなかった。
ミランダはGPに強く惹かれつつも「実際に付き合おう」と身を乗り出すことはない。(これは多分彼女に”俗物”なところがあったからか。GPは見た目がよくないし、年上でミランダは実は世間体を気にするところもある。)
GPの方の態度は分かりにくいが、ミランダのことを愛していたのだと思う。「愛する人間とは肉体関係をもたない。」「肉体と精神の繋がりは別」という独自の哲学を持っている彼が、ミランダをベッドに誘ったり、「(失敗すると思うが)結婚しよう。」などと言ったのは、それだけGPにとってもミランダが特別な女性だったからではないかと思う。彼には”蝶”になれるミランダの素質がみえていたのかもしれない。
ミランダとGPの関係で興味深いのは、「肉体関係はないままの関係で終わっているが精神的には繋がっている」ということ。(監禁生活の中でGPの思想は彼女の中で生き続ける)
対し、監禁者・フレディは、男性不能だ。そして彼は”精神的なつながり”に強い憧れを抱いている人間である。
ミランダがフレディを誘惑し「肉体のつながりから関係を改善しよう」としたとき、それが失敗に終わり、2人の関係は崩壊するのは、皮肉な展開だなと思う。
またミランダが、”GPと自分の関係”(教師と生徒、親と子供、師匠と弟子)を、”自分とフレディ”に適用させ、よくいえば啓蒙、悪くいえば精神的に支配して、戦いを仕掛けるところも、ストーリーとして本当によく出来ていると思う。
映画版「コレクター」との違いは?
映画版の「コレクター」は、つくり上、どうしても2人の視点・思考を再現することは不可能だし、原作と比較すると政治色みたいなものは大きくそぎ落とされていたと思うが、「男女の心理サスペンス」という1点に集約させ、面白い作品に仕上がっていたと思う。
フレディ役の俳優が「見た目の整った俳優さん」(個性的なイケメン?テレンス・スタンプ)なのが意外。でもそれがフレディの不気味さを増長させていて、主演の役者さんたちの演技に引き込まれた。
途中過程が異なるところはあるのだが、ラストはほぼ同じ。
ラストシーンについて語りまくりたくもなるが、あえてここでは書かないようにしたい。とにかくラスト十数ぺージは読んでいるこっちの気がどうにかなりそうになる。
ジョン・ファウルズの本は、思えばこの「コレクター」しか読んでいない。この「コレクター」も含め、ほぼ絶版になっているようだ。傑作なのに勿体ないから、再販して本屋に並べて欲しいなと思う。
また本作において、ミランダの使う上流階級の話し方と、フレディの下流層の話し方と、英語表現に差があるというのも作品の肝らしいのだが、日本語訳が(古い出版なのに)全く違和感を感じないくらい、上手く2人の言葉の違いを表現してくれているように思い、素晴らしいと思ったことも最後に付け加えたい。