映画「ザ・プレイヤー」は、1992年にロバート・アルトマン監督が撮った話題作だが、「90年代のハリウッドってこんな感じだったんです」というバックヤードを垣間見たような、とても面白い作品だった。
映画会社の重役である主人公が殺人事件に巻き込まれる傑作サスペンス…かと思いきや、どんどんその予想を裏切られる、とんでもない映画だった。
映画全体が「メタ的」なつくりになっているような作品なので、好き嫌いがハッキリ分かれるかもしれないが、今日はこの作品について語ってみたい。
主人公は、”映画化するかどうか決める人”
この映画の主人公・グリフィン・ミル(演:ティム・ロビンス)は、映画会社の重役。その仕事は、「シナリオの大筋をきいたり、脚本を読んだりして、映画化にGOサインを出すか、決定すること」だ。
1日に125本の電話がかかってきて、年間5万本の企画のうち、映画化できるのはたった12本。
脚本家にNOというのが彼の仕事でもあり、”恨みを買いやすい”人間でもある。
また映画会社は、金儲けのために”観客にウケる”作品をつくることに必死で、芸術としての良しあしなど、二の次、三の次。脚本家の書いたものをズタズタにすることも少なくない。
そんなグリフィンが、ある日、脅迫状を受け取るところから物語はスタートする。
ご都合展開へと突き進むストーリー
グリフィンは、「脅迫状を送ってきたのはコイツだ」と、過去に自分が無下な態度をとった脚本家と接触するが、トラブルの末、彼を殺してしまう。
しかしその後も脅迫状はやまず、「人違いの殺人」だったことが判明する。
一方で、自分の殺した脚本家の恋人と急接近するグリフィン。
やがて警察に疑われ、大ピンチかと思われたグリフィンだったが、証言者の目撃情報もあてにならず、結局無実となる。終いには、美人の新恋人とちゃっかりくっつき、会社では大出世。人生思い通りのハッピーエンドで映画は幕を閉じる。
この話の一体どこが面白いのか??
前半よく出来たサスペンス風味ではじまるストーリーが、観ているうちに何の映画だったのか、分からなくなってくる。
だが、このストーリー自体、この「ザ・プレイヤー」という映画自体が、「90年代の金儲け主義に走った量産型ご都合主義映画」をトレースすることで、ものすごい皮肉をカマしてくれているのだ。
その描き方がタダモノではない。この映画の面白さは、大枠ではなく、細部に散りばめられている。
映画俳優が本人役でたくさん出演している
この映画に”酔う”1つのポイントに、実際の映画スターが本人役で出演している…という点があると思う。
「映画のキャラクターを演じている映画俳優」と、「本人役で登場する映画俳優」がゴッチャになるので、現実と架空ストーリーの境界線がぼやかされたような、騙し絵をみているような、そういう不思議な気分に浸れる。
本人役で登場した俳優(自分が気付けた人)は、以下のような感じだ。
ジョン・キューザック、アンジェリカ・ヒューストン、ジャック・レモン、ロッド・スタイガー、ジェフ・ゴールドブラム、バート・レイノルズ、スコット・グレン、マルコム・マグダウェル、アンディ・マクダウェル、シェール、ニック・ノルティ、エリオット・グールド、スーザン・サランドン、ピーター・フォーク、ジュリア・ロバーツ、ブルース・ウィルス
まず印象的だったのは、思いっきり映画重役に悪態をついてみせるマルコム・マクダウェル。いいの?こんなとこ見せちゃって…。
また、当時若いアンディ・マクダウェルが、業界人との飲み会を嫌そうに抜け出す場面もなかなか。セクハラまがいは色々あったんだろうなあ、と思ってしまう。
ラスト、ご都合主義映画のたまものとして出てくるフェイク作品には、なんと、ジュリア・ロバーツとブルース・ウィルスが夢の共演を果たす。
↑もう「プリティ・ウーマン」の大成功で、スター=ジュリア・ロバーツだったんだろうなあ…。
「スターがでてればなんでもいい」という中身カラッポ映画の中のキャラクターを演じている…という何とも奇抜な設定…「本人のスター性をある意味バカにされたようなもんだけどよくこんな役受けたなあ」…と、2人の器の大きさに驚いてしまった。
「ライターなんて、いなくてもいい。」
「ザ・プレイヤー」の中には驚きのアホ重役たちが登場する。
「ライターなんか、いなくていいだろ。」「俺たちで話考えて、客にモニタリングさせて、気に入るようにつくり変えていけばいい」とのたまう人たち…。
1987年に公開された「危険な情事」という映画が、試写の反応をみて、受けのいい結末に変えたら大ヒットした…という時代背景もあり、「とにかくウケるものをつくって儲けるぞ!」という商魂のたくましい連中が集まっている。
また本作にて「映画化にGO」するか決定するグリフィンを説得するために、いろんな業界人が彼を口説きにかかるシーンも面白い。
グリフィンには、「作品内容を25語以内で短く簡潔に説明しなければならない」という掟が出てくるのだが、”分かりやすさ”だけを重視したとんでもプレゼンが次々登場する。
「卒業PART2…卒業の25年後で、ミセス・ロビンソンの介護をしていて…」
「女優がある日、アフリカに行って、神と間違えられて崇められて…適当にエコロジー問題を入れて…」
と、もう、メチャクチャだ(笑)。
「つくりたいものをつくる」のではなく「ウケるものをつくる」
本作のヒロイン…グリフィンと恋仲になる女性・ジューンはグレタ・スカッキという、美人女優が演じているのだが、話し方(アクセント)にどこかヨーロッパの雰囲気がある人だなあ、と思った。
↑グレタ・スカッキは透明感のある正統派美人…だと思う。イギリス人とイタリア人のハーフらしい。
このジューンも絵を描いたり、写真を撮ったりと職業はアーティストだ。
「自分が感じるままに書いてるだけなの。」「未完成だから売れないの。」
彼女には「売れるか」とか「ウケるか」とか、どうでもよさそうな感じだ。
つくりたいから作っている…という非アメリカ人…グリフィンが猛烈にこのジューンに惹かれる…という展開も、なんだかメタになっているようで面白い。
よくウッディ・アレン映画を観ていると、「アメリカ人ってほんとヨーロッパに憧れてるんだねえ」と思ったりするが、この映画のグリフィンにもそんな感じがした。(…ってアメリカに憧れるジャパンの自分がいうのも何なんですが)
「もしかしてわざとですか?」の面白いシーンたち
「ザ・プレイヤー」は混沌としているが、その混沌もすごく意図的な、計算されたものなのではないかと思う。
”真面目にみていると何かヘン”と感じた面白シーンをいくつか挙げてみたい。
グリフィンが脚本家・ケヘインを誤って殺すシーン
相手と揉み合って誤って殺してしまう…という展開だが、どうしても強引な無理矢理感が否めない。
グリフィン(ティム・ロビンス)の顔のアップ、やたら響かせた声、赤い照明で照らされたロケーションで死を強調…と”大げさ”な感じがしてしまう。
普段、こういう映画を違和感なく山ほど観ている気もするが、「プレイヤー」の中に混じるとこの違和感に気づき、不思議な気分になる。
グリフィンとジューンが急接近する場面
恋人を亡くしたジューンが、まったく趣味趣向があわなさそうなグリフィンに惹かれるというストーリーもまたおかしなものだ。
ジューンの画廊にて話し込んだ2人が見つめ合う…ジューンの横顔のアップから彼女が振り向く…やたら短いカットの連続…
「え?今、恋に落ちる要素、どこにありました?」と訊きたくなるような展開が、おそらくハリウッド映画にはゴマンとあるように思うが、このシーンも巧妙にそれを茶化しているような気がする。
ふざけてんのか!!の濡れ場
本作にて「セックスシーンは入れろ」と重役が映画について指示を出すシーンがあるのだが、「濡れ場」があるかどうかも、ヒットにかかわった重要な要素だったのだろうか。
グリフィンとジューンのセックスシーンもでてくるのだが、なんと、顔のアップしか映らない…!!ガッカリだよ!!顔ばっかり延々とみせられて、下は洋服しっかり着てるかもしれん…くらいに思えてくる(笑)。
大作映画に出てるスターってあんまり脱がないよね~…と余計なことを考えながら観た(笑)。
ウーピー・ゴールドバーグの刑事役だけが”現実の人”!?
この映画で”浮いている”ように自分が感じたのが、ウーピー・ゴールドバーグが演じる女刑事だ。
彼女が、警察署にグリフィンを呼んで、捜査協力を願うシーンが面白い。
映画のような取り調べシーンを想像しているグリフィンだったが、警察署は意外なほどに現実的な空間。
座ろうとした席には新人のどでかいバッグ…ウーピー刑事の机からはなんとタンポンがでてくる。
尋問に答えるように促すウーピー刑事に対し、「ここはイランか?」「恋人を亡くした女性(ジューン)は貞節を守らなければならないのか?」とまるで”映画の主人公”のような会話を繰り出すグリフィン。おおげさな彼の態度に、刑事たちが爆笑。
しかし、ラスト、グリフィンは裁きを逃れて、意気揚々と警察署をでていく。窓越しにそれを見つめる刑事3人のカット…。
このシーンには、「グリフィンは映画の中の人物だから、現実の人間は手出しできない。」という、メタ構造にありがちな”気味の悪さ”みたいなのを感じて、ちょっとホラーみたいだった。
結局グリフィンに脅迫状を送ってきたのは誰だったのか?
映画のラストにて…社長になったグリフィンに、新たな企画の売り込み電話がかかってくる…。
「ハリウッドを舞台にしたスリラーだ。皆に憎まれている映画会社の重役が逆恨みのライターを殺す…(略)だが結局は無罪…。」
電話の主は自分こそ、「脅迫状を送った犯人」だと語る。
「最後はハッピーエンドだ。値段次第だがな」と犯人は言い放ち、グリフィンが「ハッピーエンドならGOだ」というように答えて映画は終わる。
もうメタ構造バリバリだが、自分はこの電話の声が誰かな?同じ声の人が登場人物の中にいたかな?と少し気になった。
話し方が、ケヘイン(グリフィンが殺した脚本家)のお葬式でスピーチをしていた男に似ているかなあと思ったが、自分は声のききわけ才能がダメすぎて、結局よく分からなかった。
しかしあの脇役が、ケヘインの葬式のスピーチにて、「今回の出来事は社会が悪い」みたいな意識高い系のスピーチをしていたのは印象にのこっている。
結局、脅迫状の犯人が誰か…というのはあまり重要ではないのだろう。
現実を直視せず、映画に夢だけを求める、ハッピーーエンドだけを求める観客も悪いんだよ…とボカされたような気分にもなってしまうが、それもこの映画のメッセージなのかもしれない。
80年代~90年代ってそんなに悪かったのかな?
自分は80年代生まれだが、80年代以降といえば、アメリカン・ニューシネマの時代が終わりを告げて、MTV系、娯楽超大作系が猛威を振るっていた時代のように思う。
ご都合主義大作にも面白いものも結構あって、「お金にモノいわせてつくった」作品も1つの文化だったような気がする…のは、”自分の時代びいき”かもしれないが、好きな作品もたくさんあるのは確かだ。お金儲けも大事だし…とも思う。
でもクリエイターが「つくりたいものを持たず、ひたすらウケだけを考えて、映画がつくられていく」という流れに警鐘を鳴らしたような作品が「ザ・プレイヤー」なのかなと思う。
この映画のダメプロデューサーたちがつくったトンデモない映画って具体的にどんなものだっただろうか?
自分の頭にトートツに思い浮かんだのはコレ…!デミ・ムーアがストリッパーのシングルマザーの元刑事で事件解決とかいうトンデモ映画(笑)。
信じられないようなバカな企画が大当たりすると信じて、とんちんかんなプロデューサーが、お金と権力で、ぼやけた作品をたくさん作っていた時代…。
振り返ると、記憶にあまり残っていないが、確かに存在していたそういう作品がたくさんありそうだなあ、と思う。
最後になってしまったが…冒頭の8分ワンカットがスゴい…!!
なにげにこの「ザ・プレイヤー」で1番有名なのは、冒頭が8分間の長回し…ワンカットで撮られているというところだ。
映画会社(スタジオ)をぐるっと周りながら、登場人物たちが、それぞれ映画の話をしている、この冒頭のシーンだけでもすごい迫力がある。
映画のファーストショットからカチンコで「カット」の声がかかって本編に入るから、見返すとこの地点で「ザ・プレイヤー」は映画の中を描いた映画なんです…と明言しているようなものだろう。
15回撮って10回目を監督が採用したらしいというから、映画撮ってる人たちってホントすごいなあ…思ってしまう。
「ザ・プレイヤー」が、前半良作サスペンスだと信じてみていられるのは、明らかに監督の腕前だと思う。
・プール付きのバーで映画関係者が話している業界感
・古い映画のポスターが貼ってあるおしゃれな映画会社で働く人たち
・なぜか情事のあと、白けた顔で泥パック風呂につかるカップル
…出てくる場面・絵面・カメラの動きが面白くて、一向に飽きず、集中してみていられる。
ロバート・アルトマンの映画は、この作品と、「ロング・グッドバイ」「ゴスフォード・パーク」「プレタポルテ」しかみていないのだが、もしかしてヨーロッパにルーツのある人?と思ったが、アメリカ人でした。評価の高い「ショート・カッツ」や「M★A★S★H(マッシュ)」も観てみたい。
なかなか好き嫌いが分かれる作品だと思うが、「ザ・プレイヤー」は映画業界の裏側を描いた作品としては1級の面白さを感じた作品で好きな作品だ。
たくさんの映画のポスターが映り込んだり、きっとなにかのパロディなんだろうというシーンがあって、中途半端にも届かない映画知識しかない自分には、楽しみきれていないところがきっと沢山あるのだろうが、そんな自分にも映画愛がとにかく伝わってくる作品だった。