スティーヴン・キングの作品で未読だったもの…99年の小説「トム・ゴードンに恋した少女」を読んでみました。
9歳の女の子が森で遭難するというシンプルなストーリーですが、面白くてあっという間。
文庫本約320ページ、キングとしては中編と言っていいほどのボリューム。
子供にも情け容赦ないのは相変わらずですがねっとりした暗さはなく、芥川龍之介「トロッコ」のキング版!?児童書のような口当たり。
限定状況サバイバルものという点では「クージョ」と少し似ているかもしれませんが、こちらは主人公が子供ということもあってか、全く違った味わいになっていました。
◇◇◇
メイン州に住む9歳の女の子トリシア。
両親が離婚し母親に引き取られるも、兄は新しい学校に全く馴染めずストレスを抱えて毎日母と口論。
頑固者の母親は〝週末は教育のために必ず出掛ける〟と決めて子供たちが逆らうことを許さず、一家はますます疲弊するばかり。
「そもそも親のヘマのせいでこうなった」…怒りと不満をぶつける兄に対し、「文句を言っても仕方ない」と割り切ってるトリシアちゃんが冒頭からすごい大人。
あなたも子供なんだから無理しなくていいのよ!!…と思わず声をかけたくなってしまうような健気さで、胸をひしっと掴まれてしまいます。
お酒好きのお父さんも、気難しいお母さんも、甘えたがりのお兄ちゃんも皆悪い人ではないのだろうけれど、現実に折り合いをつけられない人が折り合いをつけられる人に我慢を強いてしまうのが、何とも切なく思われました。
ある日母に連れられハイキングに出かけたトリシアは、用を足そうと道を離れた矢先に遭難。
「自分がいなくなれば喧嘩ばかりしてる母と兄も少しは他のことを考えるんじゃないだろうか」…ほんの一瞬心によぎった細やかな反抗心。
「世界には歯があって油断してると噛みつかれる」…ふと気づけば取り返しのつかない事態に陥っている、迷子発覚の瞬間が真に迫る恐怖でした。
とっても賢いトリシアちゃんなのに、「捜索隊が来るから動かない方がいい」「ゴミを捨てて痕跡を残す」といった考えは思いもつかないようで、9歳児らしいリアルさ。
一人きりになったトリシアの心の中で壮絶な脳内会話が繰り広げられていきますが、悲観的で冷たいことを言い放つ〝もう1人の自分〟とのやり取りが面白い。
悲壮感漂いつつ、物事を悪い方向に考えられるのも知性の1つなんだなーと子供の賢さに感心してしまいました。
ときに皮肉めいたユーモアを交えながら、厳しい現実をどうにかして飲み込もうとする幼い少女の精神力に圧倒されます。
そしてレッドソックスのピッチャー、トム・ゴードンの大ファンであるトリシアは、憧れの選手が自分の傍にいて見守ってくれているという空想に浸り、その幻影に話しかけ始めます。
有名人や架空のキャラと妄想脳内会話したことめっちゃあるある(笑)。
自分も子供の頃エア友達みたいなのつくったことあるなー、風に話しかけたり自転車に話しかけたりしてたなーと、童心に返るような気持ちにもなりました。
好きなものが孤独を埋めて救いとなる…些細なことだけれどきっととても大事。
夢みがちといえばそれまでだけれど、内的世界を持っている人の強さを本作はとても好意的に描いているように思いました。
リュックサックに入っていた携帯ラジオを取り出し、森の中で1人試合実況に聞き入る場面の静謐な美しさ。
人間は所詮1人きり、困難をどうにかできるのは結局自分だけなのかもしれないけど、何かに勇気づけられることは多々ある。
「ゴードンがセーブすれば自分もセーブされる」…こじつけというか、駅担ぎというか、根拠のない願いをついつい託してしまう姿にもなんだか共感。
子供じゃなくても追い詰められたときには人間ってこんな下らないことを考えてしまうものもの…過酷な状況で何かに縋りながら心の安静を保とうとする姿が迫真でした。
途中では、トリシアが父親と宗教について語らう回想シーンが挿入されていました。
神を信じていないけど、超自然的な何かの存在が世界に何らかの作用をもたらしている…そんな細やかな信仰を持つお父さん。
その存在を〝サブオーディブル〟(環境音)と呼んでいましたが、日本の八百万の神にちょっぴり近しい感覚でしょうか。
トリシアはセーブを成功させるたび天を指差すポーズをしていたゴードン選手を頭に思い浮かべながら、〝何かが自分を守ってくれている感覚〟を心の拠り所にします。
しかし一方では自分を死へ誘う不吉な存在を察知。
森でバラバラになった鹿の死体を発見したトリシアは〝何か〟が自分を殺すために付け狙っていると警戒します。
ふと目にした何気ないものが異様に怖くなってしまったり、一度こびりついた不安なイメージを払拭できななかったり、この辺りも子供の頃あるある。
嘆きたくなるような運のなさに見舞われ、ままならない大自然の脅威にさらされ、〝どうやっても自分はダメだ〟という感覚に押されながらも、トム・ゴードンという憧れの存在と愛する父親の言葉が守護霊的存在となって彼女を守る…
非常に子供らしい(けれど大人も共感してしまう)精神の葛藤が、リアリティたっぷりで胸に迫りました。
クライマックスでは姿を現したクマと対決。トリシアの目にはそれがより不気味な存在として映し出されます。
森の葉っぱを食べた副作用の幻覚でそうみえてしまったのか…本当に超自然的存在だったのか…それとも心の中にある影的な存在だったのか…
曖昧に描かれていましたが、他のキング作品より上手いバランスでまとまっている気がしました。
「あたしの血管には氷水が流れているんだ。さあ、来なさいよ、万年マイナーリーガー!!」…推しの投球ポーズを構えて精神力で野生のクマを圧倒するトリシアちゃんがめちゃくちゃ格好よくてなんだかジョジョっぽかったです(笑)。
怪物はもちろん、それ以上に全編貫いて恐ろしかったのは虫と飢えの恐怖。
大量の蚊に刺されて四苦八苦、ハチに刺されてアナフィラキシーで死ぬのではないかと戦慄。
食糧難に見舞われる中、ようやく水をみつけてがぶ飲みしたらお腹に当たって下痢。
「迷ったあげく、行き着いた先は自分のうんち」…いかにもキングらしくて笑ってしまいますが、9歳の女の子が森で一人ぼっちで激痛に耐えているのはキツいもんがあります。
想像できる痛みや痒さの描写にヒリヒリさせられました。
食べられる木の実をみつけて一命をとりとめるトリシアでしたが、お腹が満たされた瞬間は家族のことも親友のことも元の生活すら恋しいと思わなかった…
孤独と共に根源的な生きる喜びを1人噛み締める9歳児。
兄よりも父母よりも大人になっていて逞しすぎますが、人間は究極的に1人…この世の真理を突いたような壮絶な独白が胸に刺さります。
この世界はちっとも自分の思った通りに動いてはくれないけど、それでも生きる価値が確かにある…無情で不条理な世界を受け入れる小さな子供の姿には切なくなりますが、それを乗り越えての全力の生の肯定に胸が熱くなりました。
ラスト手前では、間違ってカナダに進路をとってしまいそうになるトリシア。
「数百キロ先にはモントリオールがある。そしてモントリオールとトリシアの間には何もないも同然だった」…静かにゾゾっとさせられる一文にヒヤヒヤが止まりません。
運命の分岐点。100年前の農夫が作った杭が偶然の道標となりようやく人のいる道路へ…人間は確かに孤独なのかもしれないけど、誰かの作った道が誰かを救うことがある…神々しさを感じる美しい場面。
心の支えになっていたのは大好きなトム・ゴードンですが、様々な人との思い出が彼女の命を繋ぎ止める一幕も描かれていたように思います。
専門的とはいえないけど母が娘に伝えていたキャンプの知識。悪友ペプシとの思い出、〝口の悪い言い回し〟が与えてくれる勇気と活力。世を達観した祖母の呟きがもたらす凪のような精神。そして彼女が最も愛する父親の記憶。
「勝負に勝ったよ!!」父親だけが彼女の気持ちをキャッチして、心通じ合わせるラストシーンが感動的でした。
トリシアの帰りを待つ家族の描写は合間にほとんど挟まれず、描かれていれば別の持ち味があったのだと思いますが、間の描写がなかったからこそラストに含みがあって余韻が残りました。
一家は今回の事件をきっかけに再生するのか…ご両親は色々省みるところがありそうだけど、お母さんとお父さんがそう簡単に復縁するようにも思えません。
トリシアの人生にはこれからも理不尽なことがたくさんあるのだろうけど、困難に打ち勝った少女の勝利を静かに讃えたくなる、力強さに満ちたラストでした。
お父さん、お酒飲みで欠点のある人なんだろうけど、娘のことは本当に可愛く思っていて、完璧な親でなくても愛情は伝わるものなのね…
読後気になってネットでトム・ゴードン選手の画像を検索してみましたが、黒人の選手だったことに驚き。
天を指差すポーズ、写真でみただけでも確かにカッコよかったです。
野球ファンの人はより楽しめるポイントが多い作品かもしれません。
スパイス・ガールズ、タイタニック、Xファイル…出てくるポップカルチャーも時代を感じて何だか懐かしい。
池田真紀子さんの翻訳はすこぶる読みやすくキングの世界観に浸れて大満足。
蒸し暑い夏の描写が迫ってきて、この季節にぴったりなキングでした。