中学生の頃だったか、「真実の行方」という映画作品の原作を読んだことがきっかけで、”多重人格”を題材にした小説や映画を好んで探していたときがあった。
「真実の行方」という作品では、街の大司教が殺害されその容疑者としてある青年が逮捕されるのだが、その青年に多重人格の疑いがかかる。そこに敏腕弁護士があらわれ無罪を勝ち取ろうと奔走する…という法廷サスペンスだ。
ラストあっというどんでん返しがあり、ドキッとさせられる。
自分は、映画よりも原作の方が面白かった。
多重人格者を描いたフィクション作品はたくさん存在していると思う。
例えば漫画「幽遊白書」で登場する仙水忍は多重人格者の設定だが、人格ごとに強さが異なるという設定が、バトル漫画の展開を緊迫させる要素の1つになっていたと思う。
最近の映画作品では、「スプリット」というシャマラン映画が面白かった。多重人格の男に監禁された女性たちが、各人格と相対し、交渉し、脱出をはかるサスペンスで、とてもよく出来ていた。
あとは古い作品になってしまうが、アンソニー・ホプキンス主演の「マジック」は大好きな作品だ。
腹話術師の男が、腹話術人形に自分の別人格をつくってしまい、次第に狂気に追いやられていく…という悲しいストーリーだった。
本当の自分が分からないという恐怖…1人の人間に複数の人間が同居しているという摩訶不思議…“多重人格”には、サスペンスドラマとして昇華しやすい要素があるように感じる。
フィクションではなく、現実に多重人格とよばれる人たちに迫ったノンフィクション作品もいくつか読もうとしたものの、内容が思った以上に重たく、挫折してしまった。
人格障害を持つ人たちの多くが、恐ろしい環境で育ち、虐待されており、手前勝手な話だが、現実の出来事としては読むのが辛かったのだ。
多分、このジャンルで一番有名な「24人のビリー・ミリガン」も結局読まなかった。
「五番目のサリー」は多重人格者に迫るフィクション小説
「ビリー・ミリガン」を読まなかった私が読んだ「五番目のサリー」は、「ビリー・ミリガン」の著者であるダニエル・キイスがフィクション作品とした書いた小説である。
この「五番目のサリー」はとても読みやすかった。
多重人格を決して軽いテーマとして扱っていないが、女性を主人公にロマンス的な要素も加え、ミステリとして十分に楽しめる。同時にSF的要素、「自分の意識とは果たして何なのか?」といった普遍的な哲学的テーマも備えていると思う。
主人公のサリーは、29歳の女性でウエイトレス。時々自分の記憶がとび、全く身に覚えのないことで見知らぬ人間から責められるなど、生活にトラブルが多い。
記憶がとんで自殺未遂したのをキッカケに彼女は、精神科医ロジャーの治療を受けることになる。
その過程で、サリーには5人の人格が同居していることが判明する。それぞれ性格が異なり、それぞれ異なる魅力がある人物である。
みんな自分の活動時間に、いかに自分の好きなことをするかに余念がない。
サリーのことは、みんな子供のようにみている。
精神科医のロジャーは各人格に「1人の人間になること。サリーの一部になって生きること」「それが良いことである。」…と各人格に説く。
人格たちは当初、「融合は自分たちの死である」と、この申し出を拒絶するが、ロジャーの根強い説得と自分たちの生活し辛さを改善したいという思いから、1人ひとり、サリーに融合されていく…。
人格が融合されるたび、サリーはアップデートされた、より強い、魅力的な人間になっていく。
たとえば…ノラという知的な女性がサリーに統合されると、サリーが今まで興味のなかった本を読みたくなったりする。本人はふと思う。私にこんな本を読む一面があったなんて、と。
各人格が融合される過程は、はっきり言って、とても悲しいものだった。
「ノラは消えちゃった。まるで誘拐されたとか殺されでもしたみたい。」
“人格が融合されても自分の意識はのこるのか?”…という問いに対し、サリーの主治医の答えはひどく曖昧である。「断言はできないが…」「おそらくそんなことには…」「ある程度はそのまま残るのでは…」などなど。
新しくなったサリーは、確かに“みんな”を受け継いでいるが、しかし前の別人格たちは確かに消滅している…と私は思った。読者の自分ですら喪失感を感じ、どこか恐ろしくも感じた。
多重人格者にとって、融合が1番よい選択なのか??
当時自分が読んだのはハードカバー版なのだが、作家・栗本薫さんの書評が最後に載せられていて、これがまた素晴らしかった。
「どうして多重人格であってはいけないのだろう。」「どうして陽気なデリーや知的なノラや色っぽいベラは殺されなくてはならなかったのだろう。」
「五番目のサリー」より ダニエル・キイス著 早川書房 巻末、栗本薫氏の解説より
私が結局読まなかった本なのだが、自らを多重人格と語る方が書かれた、自己啓発的な本!?をかつて図書館で発掘したことがあった。
「私は多重人格者として暮らしています。」「別人格をつくることこそ生きやすさにつながる。」「多重人格はサイコーなので、今すぐ皆でなろう。」…というような非常に明るい、そしてどこか胡散臭くも感じてしまうような内容だった(笑)。(タイトルを失念してしまったが、医者の先生だかビジネスマンだかが執筆していたように思う。)
しかし人は、多重人格者でなくても、ある程度、いくつかの場面・場面によって、自分をつくっているものだと思う。仕事と家庭でON・OFFのスイッチがあり、その時々の顔が全然違うという人…SNSで普段の自分と異なるキャラクターを創造している人…世を見渡せば色んな“自我”が存在しているように思う。
「私は多重人格者です。」という告白には、ギョッとするかもしれないが、「すべての場面で均一な調和のとれた人間でならなくてはならない。」という理想も怖い。
あえて「自分はこの場面ではこういう自分になる。」とスイッチを入れて、「別人格のように振舞う」ことも、人生を快適に過ごす選択肢の1つだという考え方は面白い。
「サリー」本編を読んでいて、人格たちの消滅にどこか恐怖と寂しさをおぼえた人間としては、栗本薫さんの「私も多重人格者」という主張は(そして個を抹殺したかたちになったサリーの結末への疑問)は未来への予言めいたものに思える。
昨今多様性という言葉とともに「みんなと違っている人が“同じ”になることを目指すのではない。」「その人がそのままで生きやすい環境をつくっていく。」という意識が芽生えているように感じる。
ラスト、マネキン人形に話しかけ手を振るサリーは、幼少期にお人形に名前をつけて遊んでいたサリーと変わっていないのかもしれない…と感じた。サリーの融合が持続されるかどうかも、疑問をのこした終わり方で、安易なハッピーエンドではなかったと自分は思っている。
トラウマを乗り越える普遍的なドラマとしても読むことができる
「サリー」の中で描かれる、多重人格の描写がどのくらい正確で緻密なものなのかは、ドキュメンタリー作品を結局読まなかった自分には全く分からない。
本編をとおして、サリーに行われる治療は催眠療法が主体だ。
治療期間が短すぎる気がするし、「こんなに上手くいくのかな」と思ってしまう。
キイス氏は執筆にあたって多重人格者や精神科医への取材をかなりしているだろうし、リアリティがないわけではないのだが、どうしても、この分野の治療の“困難さ”“不確かさ”を感じてしまった。
融合がベストかどうか疑問といったものの、治療において、サリーが過去を振り返り、人格が生まれた瞬間の出来事を明らかにしていくプロセスは、物語として心に迫ってくる。
サリーの5番目の人格・ジンクスは、世のすべての男を憎み、暴力沙汰の事件をおこす、最も問題のある人格で、他の人格たちからも疎まれていた。
だが、なぜ彼女が生まれなければならなかったのか??…が判明したとき、やるせない悲しみと怒りで、胸がいっぱいになる。
過去のトラウマと向き合い、自分をみつめなおす…激しい心の痛みを伴いながら、それでも自分の変革を決意するサリーたちの姿には胸をうたれる。
「サリー」は、トラウマを乗り越える人間の葛藤を描いた、普遍的なドラマにもなっていると思う。
「本当の自分の望みがわからない」「仮面を被って場面に同調するのに疲れている」という人は案外多くて、自我をみつめなおす”多重人格”というテーマは、意外に身近に感じやすい題材なのかな、と思った。
「五番目のサリー」は今回久々に読み返してみても、古さを感じさせない傑作だった。