どうながの映画読書ブログ

~自由気ままに好きなものを語る~

「ヘレディタリー/継承」”家族から逃げられない”という悲しみ

新作映画を劇場に観に行くことがすっかりなくなってしまったけれど、この「ヘレディタリー」は”ホラー映画久々の傑作”と名高いようだったので、今年4月にDVDリリースされてから、直ぐにレンタルして鑑賞することに。

母と娘ってちょっと特別な濃い関係って感じがするなあ…。パッケージみた感じ、楳図かずおの「洗礼」みたいな話かなあ…と思った。(これがある意味、既にミスリードでもあった。)

よくできたホラーであると同時に、なかなか悲しいドラマで驚いた。

以下、作品に言及するかたちで(ネタバレで)感想を書きたいと思う。

 

◆ネタバレありきで一応のあらすじ

この映画の主人公は、パッケージにも写っている、なんか怖そうなお母さん、アニー。

ミニチュア模型のアーティストという大変珍しい仕事をしている2児のお母さんだ。

自身は夢遊病を患っているが、両親・兄も精神的な疾患を患っていたというバックグラウンドがあり、深い悩みを抱えている。

アニーの子供は2人いて、1人は高校生くらいの息子・ピーター。

思春期でもあり鬱屈した気持ちなど色々問題は抱えていそうなものの、どうやら普通の高校生にみえる。

もう1人は小学校高学年くらいの女の子・チャーリー。言動が不思議で、動物の死体で遊んだり、どこか不気味といってもいい存在。

そしてこの女の子の方が主役かと思いきや、序盤で退場(死亡)してしまう。

 

この映画、いわゆる「オカルト」「悪魔崇拝」モノであって、一家はカルト教団の餌食にされてしまう…というのが大筋になっている。

だがオカルトものでは片付けられないような恐怖があり、家族関係について描いた人間ドラマにもなっていると思った。

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© 2018 Hereditary Film Productions, LLC

 

◆”家族”が孤立する恐怖

なんと言っても、この映画の悲しいところは、やはり、アニーが「家族に精神的な疾患があること」を悩んでいるところにあると思う。hereditaryには”遺伝”という意味もある。


・両親・兄・自分が精神的な疾患を抱えていた…子供たちもそうなるかもしれないという恐れ

・精神的に弱い自分はよい母親ではないと思い詰めてしまう自責の念

・産まなければよかったのではないか?という壮絶な問い

 

自分も家庭を持っていて、アニーとは全然状況が違うが、障害や病気と無縁ではない生活を現在送っている。アニーの気持ちが分かるとは決して言えないが、孤立感みたいなものは少し分かる…と思いながら感情移入して観てしまった。

他人に家族のことを気軽に相談できない…相談すると差別されてしまうのではないか…そういう思いも抱えていたのかな…と色々想像してしまう。

この映画、「主人公アニーが製作する “模型の家”」と「現実の家」の視点の切り替えの演出が本当に神掛かっていたが、この演出にも、「家族の出来事は家族の出来事で、外にはでない。」という閉塞感を感じた。

 

◆「産みたくなかった」という悲しい言葉

夢遊病のアニーが、夜中、ピーターの枕元に立ち、「産みたくなかった」と暴言を投げつけるシーンもとても悲しい。

だが、アニーの「産みたくなかった」には、「子供の存在を否定する」というよりも、「自分が母親に値する人間ではなかった」という自責の念が込められている。

本当は子供にもっと良くしたかったが、できなかった、申し訳ない…親になってから自分は良い親でいられているだろうか…と問うこともあるのではないかと思う。

特に、アニーのように、自身が機能不全家族に育った場合には、自分がいざ親になったときに「子供にどう接していいかわからない」と悩んでしまうこともあるのだろう。自ら与えられなかったものを他者(=自分の子)に与えるには、相当の努力が必要なのではないだろうか。

アニーはその責めぎあいの中で精神が崩壊してしまったが、それでも多分彼女なりに子供への愛は持ち続けていて単なる「恐ろしい母」だけではないように自分は感じた。

この映画の誰が1番怖かったというと、あのバーサンだ。

 

◆自分は全く悪くない、と思っている驚異のバーサン

この映画の冒頭は、主人公アニーの実母(子供たちの祖母)のお葬式ではじまるが、仲のよくない親子だったのでは、というとても陰鬱な雰囲気だ。

「不思議な気分よ。」「もっと悲しむべき?」

アニーとしては、自分が好きでなかった母親が死んで、「やっとお別れできた」という思いもあれば、「ついに最後まで分かり合えなかった」という悲しみもあり、とても複雑な気分だったのだろう。

このアニーの母(バーサン)は出番は少ないけれど、自分が信仰していたカルト宗教のために、娘と孫を信者に生贄として捧げていた…という本作の”黒幕”だ。

「どうかゆるして。多くを言えなかった。失うものを嘆かないで。犠牲は恩恵のためにある。」

このバーサンがアニーにのこしたメッセージを読むと、自分の信仰のために子供や孫を犠牲にすることを、まったく何も悪いと思っていないことが分かる。まさにドス黒い太陽…!

 アニーはもがき苦しんだが、結局毒親から逃れられず、その連鎖を止めることができなかった。自覚なく家族を苦しめる親の、強烈な悪意が、何代にもわたって人を傷つけるというのは恐ろしい。

 

◆ラスト…自我のなくなったピーターが幸福そうにみえる!?

ラスト15分くらいは壮絶だが、最後の最後、ピーターに悪魔パイモンが降臨したシーンは、不思議とそこまでの悲壮感がないようにも映った。新たなる自分の誕生ともいうべきか…。

エンディングで流れる曲も、”おどろおどろしい感じ”ではない。

自分で考えることを放棄し、自覚なく親のいいなりに生きることは、ある意味楽なことなのかもしれない。

 

ピーターは、毒親(祖母の悪影響から脱することのできなかった母親)に洗脳された子供…のようにも思える。

 

ちなみにエンディングで流れる曲を確認したら、ジョニ・ミッチェルの「Both Sides Now」だった。歌詞をじっくり聞いてみるとアレ?なかなか暗いような…。


Judy Collins - Both Sides Now (Official Audio)

 

 

◆気になった点2つ

・ピーターが家族の誰にも似ていない!?

最初この映画をみていて、ピーターだけ家族の誰にも似ていないような感じを受けて、「養子なのかな」と思ってしまった。(話が進むとそうでないことはなさそうだ)

ピーター役のアレックス・ウルフはユダヤアメリカ人とのことだが、少しエキゾチックな印象を受ける。このキャスティングはなにか意図があったのか…と疑問に思った。ただ演技が上手いので抜擢された…というのが普通のような気もするが…。

アニーの「産みたくなかったけど母に無理やり…」という台詞があったので、実はスティーブ(ガブリエル・バーン)と血のつながりがなく父親は別なのかな…それでもあのお父さんは愛情もてる人のような気もするし…と色々憶測してしまった。

 

ギリシャ神話?の授業内容が気になる

ピーターが学校で授業を受けている場面が度々登場するが、ギリシャ神話の悲劇を取り上げているようで、こちらも気になった。

ピーターが悪魔にとりつかれる直前で先生が話しているのは、「アウリスのイピゲネイア」の話のようだ

アガメムノーンが娘・イピゲネイアを神々のため(戦争のため)にと生贄に捧げようとする…家族で揉めるが、結局イピゲネイア自身が「自分が犠牲になる」ことを選ぶ…。

ピーターの未来を暗示しているようにも感じた。

また冒頭付近の授業シーンでは、ヘラクレスの死を描いた「トラキスの女たち」について話している。

ヘラクレスの妻・デーイアネイラが、よかれと思ってヘラクレスに渡したものが実は猛毒で彼を死に至らしめてしまい、デーイアネイラも追って自死する…。これは、「スティーブとアニーの死」の展開に少し似ているかな…と個人的には感じた。

「選択肢があったら悲劇性は高まるか?低くなるか?」という教師の問いも面白い。

「(家族も含めて)人は持って生まれたものがすべてではないのか?」「運命は支配できないものか?」という問いに対してNoと答えたくなるけれど、Noと答えるには相当の努力や運も必要な気がして、なかなか難しいテーマだと思う。

 

 

◆類似作品は 「エクソシスト」と「ローズマリーの赤ちゃん」!?

「ヘレディタリー」は、「現代版エクソシスト」というような高い評価を得ているようだが、個人的には作品の中身という点では「エクソシスト」より、「ローズマリーの赤ちゃん」に似ているかと思った。


エクソシスト」に出てくるお母さんは、一見すると強いタイプにみえないが、なりふり構わず助けを周りに求めた。そしてそれに応えてくれる存在がちゃんといた…という点では、まだ人の温かさを感じられる作品だ。

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ローズマリーの赤ちゃん」は子供の頃に1回見たきりでかなりテキトーな記憶しかないけれど…舞台が都会で、「ヘレディタリー」とロケーションが異なるものの、都市での孤立・近所の人がヘン・愛のない夫・妊婦さんのストレス……などベッタリした恐怖が描かれていて、とにかく冷たい作品だったなあ、という印象がある。

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 「ヘレディタリー」の雰囲気はこちらに近いかな、と感じた。

またロバート・レッドフォード監督の「普通の人々」に着想を得た!?と監督自身が話していたらしい。未見なので今度鑑賞してみたいと思った。

 

 

◆家族から逃げてもいい

一家の夕食シーンがとんでもなく陰鬱なものになるシーンもそうだが、観ていて心苦しくなるような場面がいくつもあった。

●唯一まともそうに思えたお父さんが、車の中で堪え切れずに泣き出すシーン

●ピーターが家に着いたのに、家に入るのを一瞬ためらうシーン

●アニーが集会にて、「私のせいでなくても私が責められる」と告白するシーン

家という場所が、帰りたい場所ではなく、ただ傷つけあう場所になっているのは、なんと悲しいことだろうか。

 

昨今親子関係の本などを読むと、「家族と上手くいかないことがあったら距離をとってもいい。」「逃げてもいい。」といったアドバイスが多いように思うし、自分もそう思う。

アニーにも、バーサンと距離を置くという選択肢があってもよかったのに…。ピーターだって家からでたっていいのに…。

 

なかなか、観ていて精神を消耗するようなすごい映画だったが、自分も傑作だと感じた。もう全米公開されているという、監督の次回作も楽しみにしたい。

 

「蝶の毒 華の鎖」は大正エログロ路線の乙女ゲー!?

昔からゲームには興味が薄く、コントローラーを操作する才能も皆無で、せいぜい人がプレイしているのをみているだけ…というのが多かった私…。

しかし大人になったある日、強烈な現実逃避がしたい…!と乙女ゲーをやってみることに(笑)。

選択肢から選んでシナリオを読むだけのゲームなら才能は関係ない。

どうせならタイムスリップもしてみよう…と手にとったゲームがどストライクでハマってしまったので、今日はそのゲーム「蝶の毒 華の鎖」について語ってみたい。

※大筋を語りつつ、ストーリー詳細についてはあまり言及しない感じで語ろうと思います。

 

蝶の毒 華の鎖~大正艶恋異聞~ - PSVita

蝶の毒 華の鎖~大正艶恋異聞~ - PSVita

 

 

 

「蝶毒」の舞台は大正時代…殺人事件の犯人は誰だ!?

 「蝶の毒 華の鎖」(略して”蝶毒”とよばれる)の舞台は大正時代。主人公は没落貴族の1人娘で、そろそろ結婚話が持ち上がりそうな雰囲気の、若い女性。名前は自由に入力できるが、設定されているお名前は野宮百合子となっている。

 

「乙女ゲーは基本言い寄られて、選びたい放題」などと思っていた私だが、蝶毒はゲーム開始早々に事件が起こる。「これもしかして計画殺人…?」「犯人誰なん!?」「攻略キャラの中にいるんかな!?」とグイグイ引き込まれる展開である。

BGMも、スチルも、どこか薄暗い雰囲気で、ダークで、退廃的な感じがする。

夜中になると、ホラーゲームをやっているような、独特の恐怖感があったのだが、これも自分にはたまらなくツボだった。

 そして攻略キャラ(男性陣)はほとんど変人ばかり!?とにかく濃ゆい、善人・悪人で分けられないような複雑な男たちに囲まれながら、屋敷で不気味な事件が次々と起こる。

「一体誰が味方で、誰が敵なんだ!?」…恋愛のドキドキもさることながら、作品のサスペンス展開に一番胸がときめいてしまったかもしれない。

 

 

ビックリするほどエロい

せっかく2次元で恋愛を楽しむんだもの…現実では味わえないアブナイ恋がしてみたい…!!なーんて…思っていたのも束の間、「ええっ、大丈夫、コレ!?」と乙女ゲー耐性のない自分にはふっ飛びそうな刺激があった。

この蝶毒、2011年にPC版が発売後、2014年にVita版が発売されているのだが、Vita版では、レイティングの都合上、どエロイ濡れ場がカットされている。自分はVita版プレイ後、より評価が高いというPC版に手を出したのだが、「うわあ~」となってしまった。

なんというか、蝶毒のエロは、背徳感のあるエロスなんです…!

決してエロだけが浮いているのではなく、シナリオが面白いからこそ、エロシーンが生きてくる…!人物描写がしっかりしているからこそ、「このキャラクターはこういう性癖」というのが生きている…!

とあるルートでは、なんか新しい扉が開きそうになりました…。「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」の主人公たちに「これがアブノーマルよ!」と言って叩きつけてやりたい。

 

 

 短くて完璧なシナリオ&魅力的なバッドエンド

蝶毒のゲームの特徴として、「プレイ時間がかなり短いこと」があるのではないかと思う。ゲーム系の知識皆無な自分がいうのもなんだけど、まる1日プレイして、全ルート巡れるくらい…ってかなり短めなんじゃないでしょうか。

しかし、短いのが逆にいい…!!

余計なシーンが一切なく、短い中に緊張感が続く、ダレないところも、ゲーム初心者の自分には逆に良かった。

また乙女ゲームというものの基礎的な知識が不足していた自分にとっては、「バッドエンドがしっかりと描かれている」ということ自体、新鮮だったが、この蝶毒ときたら、バッドエンドの方が、なんかイイのである。

乙女ゲー=とりあえずイケメンのどれかとくっついて終わり…と思っていた自分には、それ以外の想像がつかないようなルートがいくつも用意されていることが、大変な驚きだった。

攻略制限がかかっていて、条件を満たすと解放されるルートがあるが、このルートに突入する瞬間には、鳥肌がたった。

それまで攻略してきたルートでの伏線が綺麗に回収されるような展開で、収束していく感じがたまらない。

1つ1つのルートがパズルのピースのように埋められ、俯瞰でみたとき、どういう物語だったのか分かる。自分はゲームをしない層だけど、こういうのがゲーム特有の面白さなのかなあ、と思わせてくれた。

「ああ、このキャラはあのときこうだったからこういう行動をとっていたのか~」という振り返りがとても楽しかった。

 

 

女性キャラクターが魅力的という奇跡!?

なんとなく、自分は、乙女ゲームの主人公は、色のない、「何者でもない者」でなければならないというルールがあるのではないかと思っていた。色をつけてしまうと、プレイヤーが自分を投影できないっていうジレンマがあるのではないかと…。

しかし、この蝶毒、主人公の百合子さまが魅力的なのである…!!

自分勝手ではないけれど、自分をもっている。つらい出来事に耐える強さ、健気さ。男たちを翻弄するが、嫌な女になっていない。吊り橋効果もあるのか、恐怖を乗り越える主人公を応援したくなる。

そしてなんといっても、彼女がルートによって、淑女にも、悪女にもなって、色んな顔をみせてくれるのが楽しい。

「人間、ほんの数ミリ状況が違うと、まったく違うところにいっちゃうこともある」というのが、シナリオの説得力をもってキャラクターに生かされているのが蝶毒の魅力ではないかと思う。

 

また蝶毒には、主人公以外にも、もう1人、魅力的な女性キャラが出てきて驚かされた。乙女ゲーの主人公以外の女性キャラといったら、当て馬的なおかざりのキャラクターなのかな、などと思っていたが、なかなか男性陣をも食いかねない強烈なキャラ…!

自分はまったく声優にも詳しくないのだけれど、このキャラクターの声は、国民的アニメ!?でもよく聴く声ですぐに分かり、「すごい迫力…!」と聞きほれてしまった。

いやあ~年上のお姉さまも素敵ですね~。

 

蝶の毒 華の鎖 幻想夜話 公式ビジュアルファンブック ?ombre et de lumiere?

蝶の毒 華の鎖 幻想夜話 公式ビジュアルファンブック ?ombre et de lumiere?

  • 作者: ヘッドルーム
  • 出版社/メーカー: 株式会社ヘッドルーム
  • 発売日: 2017/10/12
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
  • この商品を含むブログを見る
 

 
蝶毒はヒットしたようで、2012年には、「蝶の毒 華の鎖 幻想夜話」というファンディスクも発売されている。(こちらはVitaに移植されていない。)

内容的には、本編の後日談で、かなり短いプレイ時間で攻略することができるのだが、「みたかったものを見せてくれている」感が満載で、グッドエンドの続きだけでなく、バッドエンドの続きも用意されていた。ハマってこっちにまで手を出してしまった…。

 

想像していたロマンティックな歴史ものを遥かに超えてきた、大正エログロサスペンス!?

結局蝶毒にハマったあとは、この1作になんだか満足してしまい、ほかの作品には手を出していない。(プレイした乙女ゲーは蝶毒とその前にプレイしたもう1作だけ…)

蝶毒のメーカーさんはもう新作をつくっていないようで残念だ。自分みたいなゲーム全然やらん人間まで、こんなに楽しめて、本当、大満足の乙女ゲームでした。

 

「ハードカバー 黒衣の使者」…フィクションを愛する者の孤独

ホラー映画って、たまにこういう大当たりがあるから観るのをやめられない…!

「ハードカバー 黒衣の使者」は、「本を開くと物語の中の怪人があらわれて人を襲う…!」というファンタジックなホラー作品だ。

”架空の人物が次元を飛び越えて現実にやって来る”という点では、「カイロの紫のバラ」に似ているかもしれないし、同系統のジャンルの中では「エルム街の悪夢」に似ているのかもしれない。

 

 

加えてロマンチックなゴシックホラー色も強く、大好きな作品だ。古書店巡りや読書好きの方がおられたら、ビビッとくる作品なのではないかと思う。

 

 

入り混じる現実とフィクション

 主人公のヴァージニアは読書が好きな、古書店で働く女性。彼女がある日夢中になって古いホラー小説を読んでいると、やがて本の中の”怪人”が現実の彼女の目の前に現れるようになる。本の内容に沿うようにして起こる殺人事件…。作家の身元を調べると恐ろしい過去が明らかに…。果たしてこれは、現実なのか、幻想なのか?

 

「ハードカバー」が面白いのは、①本の中の世界②現実の世界…に加えて、③現実ともフィクションとも判別できないようなシーン…が明らかに別で用意されているところだろう。

 

序盤、ヴァージニアが怪人と邂逅するとき、現代人のはずの彼女までもが古風なドレスを身にまとって登場するのがとても不思議だ。

これが「フィクション世界に入れ込んだヴァージニアの妄想」なのか、「彼女を”アンナ”(怪人の愛する女優)と勘違いした怪人側の認知の歪み」なのか、どちらかハッキリしない。現実と虚構のあいまいさに心奪われてしまう。

 

また黒衣の怪人は、ヴァージニアの認知によって、その存在を変化させる”抽象的な敵”だ。

彼の出没シーンを振り返ってみると…

1回目:古書店にて…顔に傷がなく、マスクをつけていない

2回目:ヴァージニアの家…「アンナ」と勘違いして話しかけてくる。このときは顔が損傷している。

3回目:バス停の前…ヴァージニアが昨日、「怪人が赤毛女性の頭を剥ぐ場面を読んだので」”赤毛の頭皮”をつけている

…となっていて、”ヴァージニアが読み進めた分の設定”が生かされて現実に出没してくる…というのもまた面白い。

 

 

フィクションを愛する者の孤独

主人公・ヴァージニアは感受性豊かな女性で、物語に没頭する人物のようだ。家にボーイフレンドが遊びにきても、本の話をやめられず、ちょっと引かれてしまっている。

語るのがやめられないアツいオタク的な魂は、周りからみるとちょっとキモくみえるのかもしれない(笑)。

しかし「この作品の良さ、自分には分かる…!」というプライドみたいなものって、映画や文学を愛する人にとっては”あるある”ではないかと思う。

 

本作にて、実際にある古書店を借りたというお店の雰囲気もたまらなくいい。古本の臭いまでこちらに伝わってくるようだ。”前に所有者がいた本”との一期一会の出会いはロマンチックにも思える。

何だか、本の方も「読んでくれる人間を待っている」ような。「自分の存在を知ってくれる人間を待ちわびている」ような。

 怪人がヴァージニアを追いかけるのも、「読んでくれた(自分の良さを認めてくれた)」女性を求めるという、次元を超えたラブロマンスにもみえてしまうのが不思議だ。

 

 

結局「黒衣の怪人」の正体は何なのか?

怪人に襲われるようになったヴァージニアは「本を書いた人間」への調査に乗り出す。

しかし明らかになったのは、「著者・マルコム・ブランド自身に精神的な障害があり、現実とフィクションの区別がつかなくなっていた」…というさらなるホラー展開…。

 

ここでマルコムと”マルコムの描いた小説の登場人物”について、明らかになっている情報を少し整理してみたい。

小説家:マルコム・ブランド

「異常性と原罪」というゴシックホラー小説がツァイト出版にてヒットした謎の作家。もう1作執筆しようとするが、「登場人物が話しかけてくる」などの幻想に苦しんだという。

まわりから誇大妄想の分裂病といわれ、亡くなる1週間前は隔離病棟にいた。その後、バラバラ死体で発見され、まるで狂犬に噛まれたような死体だったが、本人が自分で自分を切り刻んだと言われている。

 

ケラー博士(マルコムの1作目「異常性と原罪」に登場するキャラ)

著名な動物学者。自分の精子とジャッカルの卵子をかけあわせて、無断で女性に着床させ、新生命体を生み出そうとした。

しかし、代理母の女性は出産中に死亡。博士は、生まれた生き物(怪物犬・ジャッカルボーイ)を我が子として育てようとするが、狂暴で手に負えなくなる。やがて怪物犬は博士のもとから脱走するが、自分をつくった博士を憎み続けている…。

 

黒衣の怪人(マルコムの2作目”I、Madman”に登場するキャラ)

かつては医者だったが廃業している。アンナ・テンプラーという女優に夢中だが、彼女は彼を相手にせず、醜いからと嫌い続けた。怪人は、アンナの関心をひこうとしたのか自身に麻酔にかけ、耳や鼻や口を削いだ。(→そして、よりよいパーツをもつ人間を探し、切り刻んで、自分の顔に入れようとした??)

 ※この2作目のキャラ「黒衣の怪人」が、1作目のケラー博士と100%同一人物として(公式の続編として)描かれているのか自分には分かりませんでした…読解力不足かも…

 

マルコムはこれらの著作を、「ノンフィクション」「自分の告白」だといって、執筆したという。

主人公のヴァージニアも「フィクションに夢中な女性」だが、マルコムはその遥か上をいくタガの外れた存在だったことが分かる。「もしかして本当に彼はケラー博士だったのでは…」とも思ってしまう。

 何重にも重なる虚構がこの作品のミステリー度を高めていて、グイグイ惹かれてしまう。

 

 

異彩を放つ、怪物犬の存在

 「黒衣の怪人」だけでなく、ケラー博士が実験によって生み出したという”怪物犬”もヴァージニアの前に姿をあらわす。醜い、どこか悲しそうなクリーチャーだ。

怪物犬の登場シーンは特殊効果でつくられていて、技術的にみるとかなりしょぼいのだが、それでも作品の魅力を損なっていないと思う。

むしろショボさが逆に「虚構が現実に来た!」感を強めてくれているように思う。またこの怪物犬の存在のおかげで、黒衣の怪人(マルコム)が「自分の妄想に殺される」という最期を辿るようにもみえるので、作品全体をシメてくれたのではないかと個人的には思う。

 

 

この作品、観る人によって、本当に色んな解釈ができると思う。

「全部がヴァージニアの妄想で、殺人も本当は彼女がやっていた」という解釈もアリなのかもしれない。冒頭、現実と虚構を区別するキーアイテムかのように見えた黒縁メガネは中盤から全く消失していなかっただろうか。

 

でも、自分は個人的には、「フィクションの怪人がフィクションを愛するヴァージニアに惹かれてやって来た」というストーリーで観る方がロマンチックで好きだ。

「”自分の作品を愛してくれた”と喜んだ製作者が、作品を愛するものの前に姿をあらわす」…ってなかなかのファンサービスだなあ。

 

 「ハードカバー」は、2019年4月にBlu-rayが発売されたばかりだ。自分はかつて中古VHSが数百円で叩き売りされていたのを買って持っていたのだが、今回このBlu-rayを購入した。

I MADMAN

I MADMAN

 

↑ 注:上記は輸入盤です。ジャケットデザインだけは、輸入盤の方がカッコいいかもしれない。

 

特典も充実していたので、ほんの少しだけ裏話をこちらに…。

☆ヴァージニア役には映画会社はアンディ・マクダウェルを推したらしいが、制作陣が猛反発して、ジェニー・ライトに決まったらしい。やーめーてー。アブナイ。

☆本作の原題は、「I、Madman」という作品中に出てくるペーパーバックのタイトルになっているが、元々制作陣が決めていたタイトルは、「ハードカバー」の方だったらしい。「ハードカバーの方がよかったよ」といいつつ、「それじゃ検索上位にあがってこねえ」というもっともな納得(笑)。

 

変な邦題のホラーが多い中、日本語タイトルを「ハードカバー」に決めてくれたのは、GoodJob!!

 

久々にみても、素晴らしい傑作だったので、ソフト化に心から感謝したい貴重な1本だ。

映画「クライング・ゲーム」…おとぎ話みたいだけど好き

この映画が好きだといって周りの同意を得られたことが1度もないのだが、「クライング・ゲーム」は今でも大好きなラブストーリーだ。

子供の頃、「大人になったらこんな街でこんな素敵な恋がしてみたい。」と夢見ていたことがあった(笑)。

 

 

公開当時のキャッチコピーには、「決してこの映画の”秘密”を話さないでください。」などと書かれていたし、語らないのが礼儀な作品なのかもしれないが、大好きな作品なので、少し思い出して語ってみたい。

 

※以下どんでん返しのある映画について、ネタバレありで語っています。

 


二転三転しまくるストーリーが面白い

まず、おさらい的なあらすじを簡単に…。

 クライング・ゲーム」の主人公ファーガスは、IRAアイルランド独立過激派)のテロリスト。

彼とその仲間が、英国軍に捕らえられた同士を解放するための人質として黒人兵士・ジョディを誘拐してくることから物語がはじまる。

主人公のファーガスは全くイケメンではなく、パッとしない雰囲気なのだが、独特の色気がある。(と自分は思う。)

また「なんで、あんた、テロリストになったん??」とツッコミを入れたくなるくらいのお人好しで、その優しさを人質のジョディに見抜かれ、2人の間には奇妙な友情が芽生える。

「自分が殺されたら、ロンドンにいる恋人に愛していると伝えてくれ。」というロマンティック極まりないメッセージを託されたファーガスは、ジョディの死後、律儀にロンドンに向かい、美しい美容師のディルと出会う。

夜バーでボーイ・ジョージの「クライング・ゲーム」という曲を歌う、不思議な魅力の美女、ディル。

惹かれあった2人は夜を共にしようとするが、ここで信じられない展開が!!

ディルはなんと男性だったのである…!!

うっわー、独特な雰囲気の美人だと思ったけど、まさか…

ええっ?ジョディってどういうつもりでファーガスにあと頼んだんやろ??

…などなど頭の整理がつかないまま、ストーリーはさらに進む。

 

クライング・ゲーム」が素晴らしいのは、最大のオチが明らかになるのが映画の半ばなのに、そのあとも物語が二転三転続け、全く退屈させないという点にあると思う。

 

 

優しい男・ファーガスが魅力的

ファーガスは非常に優しい男で、ディルが男だったことに驚き拒絶してしまうが、その態度を後日謝り、紳士的に対応する。

ファーガスはゲイではないので、付き合うつもりはもうすっかり無いのだが、ディルの方は優しいファーガスにどんどん惹かれていってしまう。

ファーガスの不器用な優しさに胸がキュンキュンしてしまい、「これは惚れてまうわ〜。」「男だけどめっちゃ美人やし、もしかしたらワンチャンあるかも。頑張れディル〜!!」などと応援しながら観る(笑)。

そこに残滅したはずのテロ組織の同僚が追いかけてきて、ファーガスとディルを巻き込もうとする。

ディルを守り抜くファーガスがとにかくカッコいい。

ファーガスの優しい性格…面倒なのに結局他人に譲ってしまうような性格をあらわすものとして、映画本編の中に、ある寓話が登場する。


サソリがカエルにおぶってもらって川を渡っているが、川の途中でサソリがカエルを刺してしまい、2人して溺れる。どうして?と問うカエルにサソリは「それが自分の性だから。」と答える。

ジョディはこの話をしながら、「あんたは優しい性の人間だから俺を助けてくれるはず」…ファーガスを説得しにかかっていた。

 

「人間の性(さが)は変えられない」というこの例え話が、「あたしはあたしでしかいられない」と語ったディルにもかかってくるのが面白い。

 

 

色んな愛のかたちがある

ディルのもともとの恋人であり、冒頭に登場したジョディ(黒人の男性兵士)だが、実は拉致された経緯は、ハニートラップに引っかかったからである。

ジュードというIRAテロの女性メンバーの誘惑に引っかかってしまったのだ。


うろ覚えだが、「あんな女。自分の恋人の方がずっといいのに魔がさした。」みたいなことをジョディが口走るシーンがあったと思う。

子供の頃は性の多様性について今よりもっと無知だったため、初めて観たとき、「ジョディはディル(男性)が好きなのに、なんで女のハニートラップなんかに引っかかってしまったの??」と不思議だった。

ジョディがどういう性の好みをしているか詳細は分からないが、ディルとのパートナーシップにおいても男性役だったろう。元々は女性が好きだったが、ディルだけが特別で、付き合った男性はディルだけだったかもしれない。あるいはずっとバイセクシャルだったかもしれない。

また兵士だから、自分の家を遠く暫く離れた孤独の中、出会った誘惑に勝てなかったというのが1番大きいのかもしれない。「ニガ―とよばれた」などとジョディは語っていた。

イギリスから差別されるアイルランドも、黒人のジョディをまた差別していた…という描写はリアルである。

 

 

マイノリティを描いているのに悲壮感があまりない

それにしても、この物語のヒロイン・ディルはかなりのマイノリティだよなあ、と大人になってから思う。「有色人種のトランスジェンダー」…海外に住んだことのない自分は人種問題について中々肌で知る機会がないと思っているが、恐らくディルは白人社会で最も激しい差別を受ける人間ではないかと思う。

しかしこの映画、マイノリティの苦悩とか、差別されるものの苦しみとか、そういうものにはスポットを当てていないように個人的には感じる。

「ジョディが助けにきたはずの英国軍の装甲車に轢かれてしまう」シーンだけは、「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」のラストのアレに近いものがフッとよぎるかもしれないが…。

 

この作品が大好きで、昔スペシャルエディションのDVDを購入し、ニール・ジョーダンのオーディオコメンタリーもきいたのだが、ジョーダン監督は、「この映画を政治的な映画として撮るつもりは全くなく、メロドラマとして面白いものをつくろうとしたら偶々こういう話になった」…と語っていたと思う。

 「女性らしいと思った人が男性」…というミスリードが物凄く上手く描けているからこそ、「人の本質はみかけと同じだとは限らない」というメッセージがダイレクトに響いくのかな、と思う。

 

有色人種で、異性愛者であるディルを差別せず、紳士的に接し続けるファーガス。

どうやらワケありの過去を持っていて、例え獄中に行くことになっても、ファーガスを愛し続けるディル。

なんの縛りもなく、相手を受けとめる2人がカッコいいし、憧れる。

 

「成長して変わること」がのぞまれたり…あるいは「絶対に変わらない人の嫌な部分」をみせつけられて絶望したり…

そういう物語が多い中、「変えることのできない自分がいる」を肯定的にとらえ、そういう他者をも受け止めてみせる…という姿勢の「クライング・ゲーム」はとても優しい作品だと思う。

 

現実は厳しいのよね~とは思うし、だからこそ「クライング・ゲーム」はラストも含めておとぎ話のようにも映ってしまうが、今でも大好きな作品だ。

 

「燃えよ!カンフー」のケイン、全く東洋人にみえないがそれでもイイ

ちょうどタランティーノ監督の「キルビル」の後編が劇場公開された頃だったと思うが、「燃えよ!カンフー」という昔のテレビドラマが地上波放映されていた。

局はどこだったか忘れたが、ナゾの”うしみつショー”という名前の番組枠(深夜枠)だったと思う。

キルビル」でラスボスのビル役を演じたデヴィッド・キャラダインがこのドラマの主演だから、公開記念にオンエアしてくれたのかもしれない。

デヴィッド・キャラダインといえば…とにかくB級映画にたんまり出演している俳優というイメージが強い。

「デスレース2000」のフランケンです、と言って分かってもらえる方がいたら嬉しい限りだ。

 

 

兄弟のロバートとキースも俳優なので、”キャラダインのお兄ちゃん”と言った方が分かりやすいのかもしれない。


この「燃えよ!カンフー」というドラマ、なかなか面白かった記憶があるので、うろ覚えになってしまうが、少し思い出してみたい。

 

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◆西部劇+カンフーのスピリチュアルドラマ!?

「燃えよ!カンフー」の舞台はいわゆる西部劇の時代なので、1870年前後かと思う。

主人公の男性、クワイ・チャン・ケインは、少林寺でカンフーをマスターした、中国人とアメリカ人のハーフ。ある事件をきっかけに中国から身を追われ、渡米。西部にいるはずの異母兄を探す…というストーリーだ。

 

ケインは西部をさ迷う中、色々な人・事件に出くわす。

行く先々での困難をアクション(暴力)ではなく、対話(東洋思想)で、乗り越えていくところがこのドラマの見所だったと思う。もちろんカンフーも身を守る術として時々使っていた。

西部劇のロケーションなのに、ケインが銃を持たず、馬にも乗っていなかったのは印象的だ。

 

西部を行くケインが困難にぶち当たる度、彼が過ごした少林寺の回想シーンが入る。

そこでカンフーマスターが人生の教えみたいなものを語るのだが、コレがかなり良かった。自己啓発的な内容とでもいうべきか。

気持ちの優しくなれるような教えばかりで、人やお金に執着せず、けれども他人に優しいケインがカッコよかった。


オープニングは沈む夕陽に、どこか東洋らしさを感じる荘厳な雰囲気の音楽。

西部劇と東洋思想みたいなのが、合体した、不思議な魅力のあるドラマだったなあと思う。

 


デヴィッド・キャラダインが全く東洋人にみえない件

ケインは中国人とアメリカ人のハーフという設定だ。行く先々で、「この東洋人が。」「あんた、一体どっから来たんだよ!?」と、人種差別的な攻撃をバンバン受けていた…と思う。

しかし、演じるデヴィッド・キャラダイン自身は東洋人の血など全く流れていない、アメリカ白人だ。

観ながら、「ケイン、東洋人にみえるか?」と正直違和感バリバリだった。

確かにキャラダインには多国籍風の、少しエキゾチックな雰囲気があるようにも思う。「おじいちゃんにアジアの血が流れてるんです。」とかいわれたら、そうなんですか〜と思うかもしれないが、しかし、どうみても東洋人にはみえない。

 

またデヴィッド・キャラダインのアクションが、こう言ってはなんだが、全くすごくなかった(笑)。

きけばこのドラマ、原案がブルース・リーで、ブルース・リーが主演したがったのに、キャスティングされなかったらしい。アジア人差別などの事情があったのかもしれない。

ブルース・リーの西部劇みたかったよ〜とも思ってしまうが、ある意味アクションがそんなにすごくないキャラダインのおかげで、「差別に非暴力で立ち向かうケイン像」が奇しくも確立されたのではないかと思う。

 

今だったらこのキャスティングは絶対に成立しないど思うけど、制作陣の「こっちが東洋人っていったら東洋人なんだよ。」という姿勢、自分は嫌いではない。

貫くことで出来上がったケインの魅力があったのではないかと思う。

 


◆1話完結のストーリーが面白かった

ストーリーについてはおぼろげな記憶だが、1話完結で、ケインが人々に出会っては別れゆく…というような、通して見ると長いロードムービー的なお話になっていたと思う。

 

第1話は、「シェーン」の完コピのような内容だった。シェーンと違って銃ではなく、カンフーを使うというだけで。

記憶に残っているのは、まだかなり小さい、ジョディ・フォスターが出ていた回だ。
ある事件を目撃するが、目撃現場にいた位置の違いで見えたモノが異なり、証言が食い違ってしまう…真実は何か??そんなお話だったと思う。ジョディ・フォスターマンドリン?を弾き語りするシーンがあったが、とても可愛らしかった。

カポエイラの習得者が出てきた回も印象に残っている。
ケインが出会ったその人物は南米出身で、街の人から慕われていたが、「自分はここではなく、祖国に戻って祖国の不正と戦いたい。」というようなことを熱く語る。
ケインはその人に「不正はどこにでもある。ここで戦え。」などという。
もう祖国に戻ることが叶わないケインが「今の自分の場所で生きろ。」と語るのが印象的だった。

 

各話タイトルが、「幼心に仕掛人が走った」など、「流れよ我が涙、と警官は言った」のようにやたらシャレていたのも印象に残っている。

優しいケインに、出会った人々が心癒されていく。観ている自分も癒されるようなドラマだった。

 

 

◆ケインはお兄さんに会えたのだろうか?

ケインの旅の目的は、異母兄を探し出すことだった。

映画「パルプ・フィクション」にて、「俺は大地をさすらうぜ。燃えよ!カンフーのケインみたいにな。」というサミュエル・L・ジャクソンの台詞があったと思うが、ケインは決して自分探しの旅に出ていたわけではない。(でも自分のルーツ探し…という意味では同じか。)

 

とにかく行く先々で、必死にお兄さんの情報を集めようとしていたのを憶えている。

「燃えよ!カンフー」は、全部で3シーズンあるようだが、うしみつショーで放映してくれたのは、第1シーズンだけだった。

第1シーズンでは、ケインのお兄さん情報は結局皆無のまま終わってしまっていたと思う。

こういうストーリーラインだと、どうしても、兄が悪の道に堕ちていて、兄弟で戦い、最後に和解する…というのを想像してしまう。

ケインがお兄さんに会えたのか謎のままだが、あんなに一生懸命探していたので、会えているといいな、と思う。

 

思えばタランティーノの「キルビル」のラストバトルも、ビルのアクションはほぼなし、あえてスパっと短くみせたものだったけれど、それも味になってて良かったんじゃないかなあ、正統派のアクション俳優ではないけど、デヴィッド・キャラダインの不思議な魅力が出ていたように思う。

 

「燃えよ!カンフー」はなかなかビデオレンタルでは見かけないのが残念だが、もしチャンスがあれば、再視聴してみたい。

 

映画「ハイスクール白書」はイタい選挙戦を描いたブラックコメディ

なんというか、かなりイヤーな感じもする作品なのだが、もうすぐ選挙だなあ…などと思いつつ、なんともう約20年前の作品だが、未だに印象が強烈なこのブラックコメディについて語ってみたい。

原題はズバリそのもの「ELECTION」(選挙)で、生徒会会長の選挙戦を描いている。

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優秀な会長候補・トレイシーの性格は最悪!?

この作品の舞台はアメリカの片田舎の高校。成績優秀なガリ勉少女・トレイシーが生徒会会長に立候補するが、そもそも生徒会に関心の低い生徒ばかりで候補者は彼女だけ。平和な出来レースに思えたが、生徒会顧問で社会科教師のマカリスターは、トレイシーの性格の悪さを見抜いている。

 トレイシーの当選を妨害しようと、骨折した元アメフト部員のポールを対抗馬に擁立し、思わぬ波乱の選挙戦が幕あけとなる…。

 

マカリスターの「対立候補をたてる」という行為自体悪いことだと思えないが、本当の狙いは、「自分がトレイシーと仕事をしたくないから、彼女の選挙を妨害する」というごく個人的なものだ。

マカリスターは、トレイシーが自分の同僚教師と不倫していたこと(そしてその同僚が酷い目にあったこと)を知っていたから、関わり合いになることに危機感を感じたのかもしれない。

 

この作品のトレイシー(リース・ウィザースプーン)の憎たらしさはなかなかスゴい。

一見、努力家で、向上心がある真面目な人間に見えるが、対立候補ポールの選挙ポスターを破棄し平気で嘘をつく…など悪辣な人間だ。

内省的なところが皆無で、自分が大好き。友達が1人もいないが「自分は優秀で頭がいいから孤独」なのだと言って開き直っている。

シングルマザーの母におそらく、高い理想と努力を押し付けられていたというところには同情してしまうが…。

 

マカリスターはこのトレイシーのことをものすごく嫌っている。 

授業でも挙手した彼女をあえて避け続けたり、会話をスルーしたり、あからさまに態度に出してしまっている。自分は、関わり合いになりたくないという危機感だけでなく、「気に入らない人間をつぶしたい」という彼の意志を感じた。

 

似たものどうしはいがみ合う!?

自分は、教師のマカリスターも、トレイシーと同じくらい、嫌なところがある人間なのではないかと思った。

劇中、マカリスターは彼自身のモノローグにて、「自分はすごく良い教師で、学校から好かれている。幸福な人間。」などと語っている。

このモノローグ、トレイシーのとよく似ている。

「自分は好かれている」などと宣う人間が果たして本当に他人から好かれているだろうか。

自分が大好きだけれども、実は“満たされていない”…心の奥では自分自身に大いに不満があるにもかかわらず、それを認められない傲慢さは2人ともよく似ているように思う。

マカリスターも、元同僚の嫁と不倫するし、最終的に選挙の票を破棄するという不正行為でトレイシーを貶めようとするし、やっていることがソックリだ。

 

 本質的には自分と似た人間だが、自分の許容量を大きく超えて、恥も外聞もなく、自ら思う道を突き進む若いトレイシーのことが、鼻についたのでは…と自分は感じた。

 

“選挙なんてクソくらえ!”第3の候補・タミー

生徒会選挙には、マカリスターの思惑を超えて、第3の候補者が出現する。

「選挙なんてクソ食らえ!」「誰が会長になっても何も変わらない。」「幸せなのは当選した本人だけ。」「内申書のポイント稼ぎよ。」「私が会長になったら生徒会をつぶすわ。」

 

この名スピーチで拍手喝采、一躍トップ候補に躍り出たのが、タミー。彼女は、なんと、マカリスターが擁立した候補・元アメフト部のポールの妹だ。

タミーはある女生徒と恋に落ちたが、相手にとっては同性愛もおふざけで、振られてしまい、さらにその元カノが兄のポールと付き合いだしたのに腹をたて、「選挙をつぶしてやりたい」と、ささやかな復讐心で立候補したのだ。

短いが、タミーの演説シーンはなかなかカッコいい。常世すべての選挙(政治)に当てはめて聞くことができる、この映画の“メッセージ”でもあると思う。

若いときにこの映画を観たときは、「この映画で唯一まともなのはタミーだけよ。」と思っていた。しかし、改めて考えると、タミーはタミーでイタイところのある人物なのかもしれない…。

 

タミーは結局、選挙戦線を離脱してしまうのだが、投票の結果の大半が「記名なし」だったことを考えると、実質タミーの主張が生徒(民衆)に支持されていたのだと思う。

現実「選挙なんかに行っても意味がないから。」「特に関心がないから。」と投票に行かない人たちの多さを考えると、タミーはこの層の代表にも思える。

(多分投票しなくていいなら、投票すらしない生徒が多かっただろう。)

 

「みんながやっているからやらなければならない」という同調も嫌なものだが、自分も社会の一員だという認識を放棄して、無関心を決め込むというのも危険ではないのか…彼女はそういう「大衆」の立ち位置を反映させたキャラなのかもしれないと思った。

 

誠実なだけではダメ!?兄ポールの残念さ

トレイシーやタミーと異なって、マカリスターが擁立した有力候補・ポールは、”めっちゃいい奴”…!

嘘をつかず、他人の幸せを願える、ねたみひがみのない人間だ。トレイシーと違って友達が多い。妹タミーはポールを嫌っているが、ポールはタミーのことが好きで、家族として愛している。

しかし、ポールはポールで、人の気持ちを察せない愚鈍さがあって浮いてしまっているところもあるようだ。

ポールが語る生徒会の運営案は、間の抜けたものばかりで、おそらくトレイシーなら、難なくこなすようなことが、全く出来ないのではないかと思わせる。

ポールをみていると、「誠実というだけの人間が会長(政治家)にふさわしいのか」という疑問も湧いてくる。

ポールのような善人を決してよく描いていないところもこの映画の“毒”の1つだと思う。

 

個人の道徳観が倫理と反することもある

 この映画でマカリスターを演じているのが、マシュー・ブロデリックであることは、この作品が用意した最大の皮肉なのかもしれない。

マシュー・ブロデリックといえば、青春学生映画「フェリスはある朝突然に」で、仮病で学校を休み、自由を謳歌する学生を演じて人気を博した。

この映画の、キャラクター本人がカメラ目線で話し出す演出は、フェリスへのオマージュ?にもみえる。

 「フェリス」は、ご都合主義だらけの80年代のイケイケ感がスゴイが、嫌な気持ちのしない、純粋に楽しい映画だ。

フェリスも嘘をついて、自分の都合のよい学校生活を送る人間なのだが…。

 

「ハイスクール白書」の冒頭付近、マカリスターが行っている授業の中で、「倫理と道徳との違いは?」という問いがでてくる。

 映画のシーン的には、「トレイシーが授業中鬱陶しくみえる」ことを演出したいがための場面にみえるが、実は作品のテーマと深く関わっているのでは?と思わせる。

「倫理とは社会の規範に従うこと。」

「道徳は教え・経験から学ぶこと」

「学んだことをどう生かすのかが倫理」

 …などと作中では、生徒たちの回答が続いていた。

 この映画で対立するマカリスターとトレイシーは、いずれも、守るべきルールを破ってズルをしている。(倫理にしたがわない人間)

 しかし本人たちは自分のことを悪いとは思っていない。「私が生徒会長になった方が学校のためだから。」「人を踏みつけ上に行こうとするトレイシーに挫折を教えたい。」と、個々の道徳観によって、よかれと思って行動している。

 道徳観は人それぞれで、自分が良しと思っていることが、ときに人を傷つけることがある。個人がよいと思うことと、社会(他者)がよしとすることが相反することもある。

トレイシーとマカリスターは、 自分本位の望みを「こうやった方が〇〇(他者)のためだから」などと偽りの倫理を振りかざし、自分にとって都合のいい現実をつくろうとする。

 フェリスのように「自分のために自分がやりたいことをする」という自由さはそこにはない。ここが2人のイヤ~なところではないかと思うし、現実に「大義名分」を掲げて選挙に出馬する政治家に対する不信(タミーのいったような”どうせ自分らのためでしょ”という不信)にリンクさせているようにも感じた。

 

 

 “生徒会の選挙”というフィールドが“現実の選挙”にはね返って照らされるように、この映画の登場人物たちのイタさは、自分にも突き刺さってくるものがある。

 見ごたえのあるコメディ映画だと思うのだが、毒の強い独特な作品だと思う。

 

「カメラを止めるな!」は、私の好きな〇〇映画(ネタバレ)

一昨年話題になっていた「カメラを止めるな!」を今更ながら今年3月金曜ロードにて観ることができた。

前情報なしで観ることができてラッキーだった。とても面白かった…!

以下ネタバレありで、私も少し感想を書いてみたいと思う。

 

 

 

 

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ゾンビものとみせかけての、まさかの明るい人間ドラマ(笑)。家族の話でもあるけれど、個人的には「仕事への姿勢」を描いたドラマとして胸に迫るものがあった。


主人公の映像監督・日暮はこう評されている。「早い」「安い」「仕事はそこそこ」と。

クリエイターにとって”そこそこ”というのは、本来誉め言葉ではないような気もする。

しかしクライアントの要望をよくきき、妥協するのも上手いからこそ、予算内で一定以上のモノをつくる職人として重宝されてきた。

日暮はクリエイターであると同時に、サラリーマンなんだなあと感じる。

 

どんな仕事だって、100点を目指すなんて無理、無理。己の能力のせいであったり、予算のせいだったり、環境のせいだったり、プライベート(家族)とのバランスを選ぶがゆえであったり、…多くの人がどこかで“ある程度の妥協”をして仕事をしているように思う。

でも日暮はきっと、クリエイティブの分野(制作)の立場であるがゆえ、この“妥協”について、より複雑な思いを抱いて生きてきたのかもしれない…と感じた。

 

「もう少しお金があればもう少しいいものが作れる。」「自分に才能があれば違うものができるのかもしれない。」「これが果たして本当に自分のやりたいことだろうか」…自分の好きなことを仕事にしてしまうと、割り切りにくいことが沢山出てくる。

 

日暮と対照的に、「妥協を許さず自分の作りたいものを作る」という信念を持っている、娘の真央。

強い信念があるが、現実そんな拘りばかりで仕事が成立するはずもなく、父と違って、仕事をもらえていない。

また「自分が本来1番好きなこと」で一度挫折し、ほかの数多の分野にチャレンジしても、結局物足りなく感じている…という妻の晴美のキャラクターも面白い。

仕事において「やりたいこと」と「やらなければならないこと」の溝は多くの人が持ち得るものではないかと思う。

 

 

以前、たまたま付けたテレビのバラエティ番組でみたのだが、あの林修先生がこんなことを言っていた。働く意欲がない高学歴の若者とディスカッションをする…という番組だったと思う。(スミマセン、うろ覚えです)

 

「みんな好きなことをやろうとする。好きなことをやることが1番だと思っている。」

「色々考え方はあるが、自分は”できること”をやる人間でいいと思う。」

 

こんな感じだったと思う。…次いで、林先生は自己啓発本を沢山執筆しているが、それは自分の全くやりたいことではないにも関わらず、成功しているという。反対に、自分の書きたいことを書いた本は逆に全く売れていない…と話していた(笑)。

自分は好きなことを仕事にして挫折したことがあるからか、「できること」をやり続けている人のことを、尊敬する。妥協してカッコ悪いと娘から非難されている日暮のことも、”立派な大人”だと敬意を感じずにいられなかった。

 

 

カメラを止めるな!」後半にて、「これでいい」だったはずの日暮が、「これがいい」をぶつけるシーンはアツい。しかし日暮が「ONE CUT OF THE DEAD」を無事に撮り終えられたのは、「好きなこと」だけでなく「できること」を乗り越えてきた男だからだと思う。

 

 納得できる仕事ができたと思う瞬間…自分が関わった仕事に誇りを持てるという幸せ…こういう場面はいつもあるものではないからこそ、尊く感じてしまう。

 

曲者ぞろいのスタッフ・出演者にはニヤニヤしてしまうが、混沌の中、各々が各々の役割を果たしきっていく映画製作のバックヤードをみるのが楽しい。

仕事でなければ絶対になんの接点もないであろう人たちが、1つの目的に向かって、全力疾走する姿は、まるでスポーツの試合でもみているかのような爽やかさだった。

 

 

 映画館で観たらさぞかし楽しかっただろうと思ったが、金曜ロードで観ても、十分面白かった。鑑賞後、幸せな気分にさせてもらった。

 

 

ファンタジックかもしれないが、「カメラを止めるな!」は、私の好きな仕事映画だ。