どうながの映画読書ブログ

~自由気ままに好きなものを語る~

アガサ・クリスティ「ゼロ時間へ」…恐怖の犯人と塞翁が馬的人生観

子供の頃「オリエント急行殺人事件」の映画をテレビでみて、それからアガサ・クリスティにハマって読んでいた時期があったのですが、1番好きだったのがこの「ゼロ時間へ」と言う作品。

断崖絶壁に面した海辺の館が舞台なのですが、タイトルのイメージとも重なる昔の文庫版の表紙がカッコいい。

推理小説はいつも殺人が起きたところから始まるが、物語はその遥か前から始まっている。様々な要素が重なり合ってゼロ時間へ集約されるのだ…〟

冒頭でとある弁護士の口上が繰り広げられますが、殺人事件が起きるのは全体の3分の2を過ぎてから…という異色作。

どんでん返しあり、男女の恋愛ドラマありで、ポワロは登場しないけど、ポワロシリーズに登場するバトル警視というキャラクターが後半探偵役を担います。ファンならニヤッとする描写も。

メロドラマテイストでありつつ、底にある作者の人生観のようなものに惹きつけられる作品でした。

◇◇◇

有名テニス選手のネヴィル・ストレンジは若く美しい妻・ケイと再婚したばかり。

ネヴィルは親同然に自分の面倒を見てくれたトレシリアン老婦人の館で休暇を過ごそうと提案しますが、前妻・オードリーもそこに来ることを知ったケイは難色を示します。

「最近の男女は離婚しても仲良くやっているもんだ」などと語るネヴィルでしたが、ケイはオードリーが夫を再び取り戻そうと企んでいるに違いないと不安でいっぱいです。

館には老婦人の世話を甲斐甲斐しく務めるコンパニオン的存在のメアリー、オードリーの幼馴染で無口なトマス、ケイの男友達で奔放なテッドなどが集ります。

ネヴィルはオードリーに再会すると別れた妻への愛が再燃したようで、次第に集まりはぎこちない雰囲気に。

そんな中館主のトレシリアン老婦人が何者かに殺されてしまいます。

ネヴィルの再婚話を巡る争いなのか、遺産絡みの殺人なのか、バトル警視が捜査に乗り出しますが…

(以下ネタバレ)

現場に残された物品は明らかにネヴィルが犯人だと指し示していました。

どんな試合でもフェアプレイを突き通す〝紳士〟として名高いネヴィルが、例え再婚に反対されたとしても老女を感情任せで撲殺するだろうか…バトル警視は疑いを持ちます。

すると次にはオードリーが犯人だと示すような物証が発見されます。

しかし最後に大どんでん返し。

真犯人はネヴィルで、最初にあえて自分が犯人だと疑われる状況をつくり、「自分を憎む元妻が自分をハメて犯人に仕立て上げようとした」と錯覚させようとしていたのでした。

 

ネヴィルの方がオードリーを捨てて若い女に走ったのかと思いきや、実は別れを切り出していたのはオードリーの方。

ネヴィルは気弱なオードリーに「体裁を保つため俺が浮気したってことにしといてくれ」と申し出て、罪悪感のあるオードリーはこれに従いました。

内心自分を捨てたオードリーに怒り心頭だったネヴィルはオードリーを苦しめてやろうと、彼女を殺人犯に仕立てあげる綿密な計画を立てたのでした。(そのためには恩人の老婦人を殺すことに何の躊躇いもない)

タイトルの「ゼロ時間」は老婦人殺害ではなくオードリーが容疑者として逮捕される瞬間(死刑確定)を意味していた…という伏線回収が見事。

そして一種のヤンデレとも言える執念深い行動をみせる犯人が衝撃的で、外面はいいけど自己愛の強いモラハラ男。

長期的計画をたててコツコツ行動するところなども含め「ゴーンガール」の先を行っていたような人物像です。

周りの人間がああだこうだと勝手に解釈しているのが当人同士の間ではまるで違う事情だったというのが、ありそうで恐ろしいことだと思いました。

 

推理の決め手が第3の男の目撃情報だったり、トマスがオードリーの事情をこっそり知ってたのが完全に運要素だったり…

何よりどんな試合でも一切取り乱さないという「狡猾な知能犯ネヴィル」が最後あんなにあっさり自白するものなのか…推理小説ファンが読むと詰めが甘いと思うところもあるかもしれませんが、男女のメロドラマの面白さや、偶然に翻弄される人間の姿が本作の醍醐味であるように思われます。

 

お話の冒頭ではアンガスという男が投身自殺を試みるも枝に引っかかって死ぬことに失敗…本筋に全く関係なく思われるエピソードが挿入されていました。

死ねなかったことに悪態をつくアンガスに看護婦さんが、「ただ生きているだけでそれと知らずに誰かの役に立っていることがあるかもしれない」などと発言します。

結局アンガスは偶然の目撃者となって無実の人を救うことに…看護師さんの発言はある種オカルトめいた予言でもあるのですが、自分の人生に価値がないと落ち込むようなことがあっても、生きてさえいれば知らずに自分が誰かの助けになっているかもしれない…という考え方が大らかでとても優しいと思いました。

 

かつて自分が自殺未遂した断崖絶壁で身を投げようとしている美女をみつけ命を救い、その美人と結ばれるってどんだけドラマチックなんだよ…!!と思ってしまいますが、悪いことが起こってもその後人生何が起こるかわからない、結果的にその悪いことが後からよかったと思えるようなこともあるのかもしれない…塞翁が馬的人生観が作品に流れているようでもありました。

その時は辛いと思うことでも後から振り返るとそれによって得られたことがあったかもしれない、出会えた人たちがいたかもしれない…そんな風に思うことは自分にも多少あって、何もかもポジティブに捉えられるほど人生甘くはないかもしれないけど、こういう心持でいた方が楽でいられるかなあと思いました。

 

お話はオードリーとアンガスという思わぬカップルが誕生して締めくくられます。

怖ろしいサイコパス犯人の素性が明かされた後、急にエンダァァァな展開になるラストが急に明るくてびっくり(笑)。

けれどロマンス要素が強いこの作品、他にもカップルが誕生してるかも…と想像を巡らすのが楽しみでもあります。

幸せになっていて欲しいと願わずにいられないのは、トマスとメアリー。

無口で周りから「面白くない」と言われがちなトマスでしたが、思慮深いメアリーだけは素朴なトマスがいると心が安らぐようで生き生きとした様子でした。

トマスもメアリーの優しい内面を尊敬している様子。

自覚がなくて恋がなかなか始まらないタイプの2人、応援したくなります。

そして自由奔放コンビのケイとテッドもあっさりくっ付いていそうに思いました。

セレブ妻になりたくて年上のネヴィルと結婚したケイ。そんなケイのことを一途にずっと好きだったテッド。

「金持ち貴族」を内心バカにしているテッド、ラテン系の血が入ってるだけで上流階級から差別されていそうで、遊び人にみえてきっと苦労人。 

同じく苦労人・メアリーの前でだけテッドが本心を打ち明けているのが印象的でした。

テッドがアタックしたら合理的な性格のケイは過去にさっさと見切りをつけて自分が本当に合う人を選びそう。

ケイも決してバカな女ではなく用意周到の強か女な一面もあり、受け身のオードリーにはない魅力を感じました。

「自分から働きかけなければ何も起きない」この考え方も真理だと思います。

(けれどそれも度を過ぎると何でも自分のコントロール下に置こうとした犯人の人物像にも繋がるのかもしれません)

 

ある種の類稀なる努力と熱意によって作り上げられた犯人の計画は思わぬ偶然が重なって破滅を迎えしまいます。

人生誰にとってもままならないもので、先に何が起こるか分からない恐ろしいもの。

だけど裏を返せば誰かが救われるような思わぬ幸運もあるものなのかもしれない… 

人生の諦観を好意的に受け止め直したような妙な明るさが漂っていて、殺人事件ものなのに癒し!?があります。

冒頭でバラバラだった全ての人物が集結し、一気に収束されたような感じがするまとめ上げ方も圧巻。自分の読んだクリスティの中でずっと好きな作品です。