子供の頃感動的な映画を観ても泣くことがなかった自分が号泣した映画が2本あって、それが「ポセイドン・アドベンチャー」とこの「真夜中のカーボーイ」でした。
映画好きだった親が「卒業」と「俺たちに明日はない」を見せてくれて、アメリカンニューシネマというジャンルがあることを知り、小学校の終わり頃だったかビデオでみた1本だったと思います。
ダスティン・ホフマンは既に知っている俳優さんだったけど、この映画の姿にはびっくり。
足の悪いセコセコと動き回る詐欺師のようなホームレス…「ホンモノだ…!!」と思ってしまうようなリアルさで、汗をじっとり肌に浮かべながら弱っていく姿も圧巻。
この作品をみてダスティン・ホフマンが一気に好きになりました。
映画評論家の双葉さんがぼくの採点表にて「この映画のラストは〝死〟の名場面の1つとして忘れられないものになると思う」…と仰っていた記憶があるのですが、排泄もままならず意識朦朧として気付けば事切れている…あの死に様がリアルで恐ろしく、リコの人生が可哀想でたまらなかったのと、たった1人の友達を失ってしまった主人公の悲しみに涙が溢れました。
子供の頃はリコが強烈なインパクトだったけど、大人になってみると感情移入してしまうのはジョン・ヴォイトのジョーの方。
愚かで痛々しいことこの上ないのですが、思春期〜20代前半の頃の自分と重なってダメなところがグサグサと突き刺さります。
「何者かにならねば」という人生への期待と焦燥感。
全く似合わない変な服着てイケてると勘違い(ファッション黒歴史あるある)。
臆病で人と関わるのが苦手なくせに自意識過剰で本音はモテたい(笑)。
ジョーの過去がフラッシュバックでインサートされていくところ。
主人公がどんな人間かを端的に表していて、無駄なくスタイリッシュ、今みても感心してしまいます。
母親に捨てられ祖母に育てられていたらしいジョー。容姿に異様に自信があるのはおばあちゃんに溺愛されていたから…
しかし祖母に恋人ができるとなおざりにされ、性に奔放な環境に置かれていたかと思いきや一方では抑圧されている…複雑そうなバックグラウンドがなんとなーく伝わってきます。
「映画代を置いていくわね」と言って小銭を孫に渡すおばあちゃん。
映画館やラジオ、架空の世界だけが友達で人と深く関わったことがない…当時31歳のジョン・ヴォイトの幼い表情がたまらなく痛々しいです。
年頃になってガールフレンドが出来たものの、彼女は町の不良たちとも関係を持っていたようで「あなただけよ」という言葉は果たして本当だったのか…
お仲間の男たちに暴行されてしまう回想シーンはまるでホラー映画のようです。
自分がズレてることにも気付かないくらい孤立していたからか、暗い過去の割になぜか悲壮感の少ないジョー。
優しい心の持ち主ではあって、相手に強く出れず人に譲ってしまうところが随所で描かれていました。
そんなジョーが都会で四苦八苦、いいようにカモられていくのが滑稽に、そして恐ろしく描かれていきます。
慣れない繁華街を歩いた時の居心地の悪さ、行き倒れの人がいても誰も振り向かない無関心な人々…
ネズミの玩具を子供の体に這わせる母親など、「よくわからない奇異な人」に出会したときの嫌な感じも何だかリアル。
頼れる実家はなく自分1人きり。自由であることの高揚感と心許なさと…上京するなど1人暮らしを経験したことがある人はジョーに共感するところも多いのではないかと思いました。
都会に来れば男娼として大儲けできると踏んでいたジョーですが、誰からも全く相手にされず娼婦のバーサンを客と勘違いして逆に金をふんだくられてしまう始末。
テレビのザッピングと共に描かれるセックスシーンの妙な生々しさ…勘違いして盛大にやらかしたときのいたたまれなさ…滑稽なのに全く笑えない強烈な一幕でした。
散々な目にあったジョーは、リコという男と出会います。
ラッツォというあだ名の通り、ねずみのような風貌をした小柄で足の悪い男。
最初はリコにいっぱい食わされたものの、再会した2人には奇妙な友情が芽生えます。
無一文でむしれるものもなくなったジョーをリコが住処に招待する場面…彼もまた心寂しく汚い町で悪戦苦闘しているジョーに仲間意識を抱いたのでしょうか。
お人好しで足の悪いことを一切馬鹿にしてこないジョーの優しさに惹かれるものがあったのかもしれません。
一方ジョーもなぜか一度裏切ったはずのリコを信用することにします。
幼少期から保護者に拒絶されてきたゆえ、罪悪感を背負いがちで何かと及び腰なジョー。
そんな彼にとって、大きなハンデを抱えていても人の目など物ともせず、しぶとく生きようとするリコの姿は強く眩しく映ったのではないかと思いました。
寝食をともにし、夢を語り合う2人。
貧しく悲惨な状況でも、1人きりでいるよりは2人きりの方がずっといい…他者がいることで得られる人生のよろこび…殺伐としているようでこの作品は確かに美しいものを描いていると思いました。
子供の頃みて強烈に印象に残った場面が2つあるのですが、1つは靴磨きのシーン。
駅でリコがジョーの靴を磨いていると次々に客が隣に座りはじめます。
「自分の親も靴磨きだった」「14時間座り続けて腰と肺を悪くした」…咳き込みながら語るリコ。
抜け出せない負のループ、貧困の恐怖を感じて、とても恐ろしく思った記憶があります。
もう1つはリコが墓参りをするシーン。
他人のお墓の花を掻っ払ってきて供えるなど、ろくでもないことばかりしているのですが、その挙動もリコらしくて可笑しくてなぜだか可愛らしい。
この靴磨きと墓参りのシーンは原作小説にはないシーンで、原作だとリコは小児まひを患った13人兄弟の末っ子…母親が死に兄弟たちにも見捨てられて父親と2人暮らししていたことが明かされます。
自らの境遇を憂いつつも、盗んだ花ででも弔いはしてやりたい父親への愛情は伝わってきて、見事な脚色。静かな名シーンだと思いました。
リコは暖かいマイアミに行けば万事上手く行くとフロリダ行きの夢をジョーに語ります。
ジョーよりもずっとしっかりしていそうなリコなのに、何もかも良くなることを根拠なく夢想しているあたり、彼もまた現実から逃げている人間。(でも人間苦しいとき、こうだったら…と思わずにいられないものだと思う)
他の人が当然持っているものを持っていないリコが、元気に砂浜を駆けている自分を夢想するシーンの切なさも胸に迫ります。
ある日ジョーは謎のパーティーに招待され、ついに客を掴むことに成功。荒々しいセックスをしてようやく女性に認められます。
なんだかんだモテるのは暴力的な強い男…!!シビアな現実を突きつけられたようで複雑でもあります。
そしてホモの客から力づくで金を奪ってバス代の資金を得るジョー。
男を殺してしまったようにも見える描写ですが、原作を読むとこの男もジョーに暴力を振るわれることに仄暗い悦びを見出していて、付いた血はあくまでジョーの罪悪感を表している(=向かない仕事だと見切りをつけるきっかけにもなった)…のではないかと自分は思いました。
仕事と金をやっと手に入れたにもかかわらず、リコの容態が一気に悪くなると、ジョーは全てを捨てて友の望みを叶えることを選択します。
皿洗いを馬鹿にしていたジョーが、平凡だけれど真面目に働いて暮らすことを決意。
自分の世界に閉じこもっていた男が愛する存在を得て献身的行為に出る…主人公がみせる成長にはじーんと胸を打たれてしまいます。
あれだけ執着していたカーボーイの服を捨てる場面。
強い男を演じる重圧から解放されて繊細で心優しい本来の自分を受け入れたようにもみえて、寂しさと共に不思議な解放感が訪れます。
それなのにリコが亡くなってしまう報われない結末のなんとやるせないことか…
ジョーは亡くなった友の目を閉じ人目も憚らずその身体を抱きしめます。
1人きりでニューヨークにいるよりも、友に巡り会えて最期までジョーが側にいてくれたことはリコにとって幸せだったのかもしれません。
歳をとるとどこかに救いを見出したくなるのか、そんな気持ちも残りました。
アメリカンニューシネマは80年代90年代の大作映画と確かに毛色が違って、暗く厳しい現実と向き合った作品が多いのかな、と思います。
中には言うほど刺さらない…という作品もある中で、この映画のインパクトはとりわけ大きく、貧困や死の恐怖をまざまざと感じさせると共に、2人の男の友情がシンプルに感動的でありました。
元気のでる映画ではないけれど、なぜか時折みたくなるずっと胸に残っている作品。
喪失感とともに、大人になってゆく主人公に愛おしさを感じました。