久々に観た「エクソシスト」がとても面白かったので、原作本を再読、DVDのオーディオコメンタリーを倍速で視聴してみました。
改めてみて色々気付くところもあり、ストーリー上分かりにくいと思った疑問点と、73年の劇場公開版とディレクターズカット版の違いについてなど、思ったところを箇条書きであげていきたいと思います。
◆バークを殺したのはリーガン?
クリスの友人・映画監督のバークを殺したのは悪魔が取り憑いたリーガンでした。
途中カールという執事がバークと口論している場面があり、自分はこの人をかなり怪しいと思ってみてしまいました。
原作を読むとカールには麻薬中毒の娘がいて、妻にその生存を隠しながら密かに面会していたということが発覚、事件時のアリバイが立証されているので全くの無罪です。
◆リーガンの枕元に十字架を置いたのは誰?
信仰のないクリスはリーガンの枕元に十字架が置いてあるのを発見し皆を問い詰めますが、全員否定。
ここも原作から補完するかたちになりますが、若い女性秘書・シャロンは仏教にハマっているらしいので彼女とは考えにくいです。
麻薬中毒に苦しむ自分の娘と重ねて心配に思ったカールが置いたと考えるのが妥当ではないかと思いました。
フリードキンもオーコメで「カールかその妻のウィリーだろう」と語っています。
良くなりますようにって思っての行動で悪気があってしたわけじゃなさそうです。
◆マリア像を汚したのは誰だったのか?
同時進行で教会でマリア像が汚される事件が起き、警察はこちらも調査していました。
この事件は「町から信仰が失われている」ことを象徴的に描きたかっただけで特に犯人とか粗筋に関係ないのかなと思っていたのですが、マリア像に付けられた粘土はリーガンが使っていたものと同じだそうです。(※フリードキン発言)
同様に原作でも「リーガンが工作で使っていたのと同じ塗料がついてる」とありました。
近所の教会とはいえ子供のリーガンが夜中に忍び込んで一仕事やるのはかなり難しそうですが、出来てしまうのが悪魔の所業なのでしょうか。
◆クリスはバークと本当に付き合ってた?
小説を読んでも明確に男女の仲という描写はなく、友達以上恋人未満な関係に思えました。
しかしこういう事には子供の方がずっと敏感で、実際にそういう関係でなくてもリーガンの中で「行く行くそうなる」と思わせる何かがあったのかもしれません。
娘を愛するクリスも決して完璧な親ではなく、「もう少し子供の気持ちを省みていれば悪魔は取り憑かなかったのか?」などと思わせるところがこのドラマの怖いところだと思います。
◆なぜバークはリーガンの部屋に行ったのか?
シャロンが薬局に行かねばならず偶然家に立ち寄ったバークに家を任せたということでしたが、リーガンの部屋にまで行く必要があったのか??
小説を読むとバークの霊(のフリをした悪魔)が「助けを呼ぶ声がしたので部屋に行った」と語っていました。
しかし映画の方のバークはどうにも嫌な奴にみえて「業界人が娘に変ないたずらしに行ったんじゃないだろうか」「本当に自分で窓から落ちたんじゃないんだろうか」などと疑心暗鬼にさせられ、こういう不確かで曖昧なところが映画版の怖い(凄い)ところだと思います。
◆最後のカラス神父は自殺?
ラストシーン、カラス神父が窓から飛び降りる場面は「悪魔がカラス神父に取り憑いて自殺に追い込んだ」と解釈した人が公開当時かなりいたそうです。
確かにカラス神父の表情が、悪魔の取り憑いた顔→本人の顔に戻る。そして本人の顔のまま窓にダイブするので、「悪魔は逃げて神父だけ殺されてしまった」と思う人が多かったのかもしれません。
制作陣の意図としては「悪魔に支配されリーガンを殺しそうになったのを自ら犠牲にすることで打ち勝ってみせた」ということらしく、自分も身を賭して少女の命を救ったのだと思ってみました。
◆73年公開版とディレクターズカット版のラストの違いは?
73年劇場公開版のラストでは、メリン神父が拾いそのあとカラス神父に渡ったメダルをダイアー神父がクリスに渡そうとします。しかしクリスがそれを「あなたが持っていて」と言って受け取らずに車が発車。1人残ったダイアー神父がカラス神父の亡くなった階段をみつめ思いに浸るところで終わります。
メダルはカラス神父の心、信仰心を象徴するものだと思うので、助けてもらったのにこれを返してしまうクリスが冷たく映ります。
親しい人が持っているべきと良かれと思っての行動だったとも受け取れますが…
対してディレクターズカット版のラストは、クリスがメダルを返そうとするもダイアー神父がそれをクリスの手に戻して車が発車。
「記憶を失ったはずのリーガンが神父の襟元をみてダイアーを抱きしめる」という先のシーンも生きて、カラス神父の思い、善なる心が引き継がれた…という感じがします。
加えてカラス神父を思っていたダイアー神父の下にキンダーマン警部が現れ、2人の友情が始まりそうなエンディング。ここも一段と明るくなっていて、原作に忠実です。
73年公開版の方は冷たく突き放した感じがフリードキンらしい。寂寞感があってこちらも素晴らしいですが、一筋希望を残したようなディレクターズカット版のエンディングの方が個人的には好きでした。
◆ラスト以外でディレクターズカット版に追加されてる点は?
その他ディレクターズカット版には、冒頭ジョージタウンの景色が追加され、リーガンの診察場面/医者とのやり取りのシーンが増えています。
テンポの良さは損なわれるものの、得体の知れない病に冒されているようなリアリティがさらに高められた面もあったように思います。
また所々に「悪霊の顔がサブリミナルのようにあちこちにチラッと映る」というエフェクトも加えられていました。
「一連の出来事は悪魔の仕業」と明快にしたかったのかもしれませんが、これが返って陳腐になっているように思われます。
リーガンが階段をブリッジして降りてくる有名な「スパイダーウォーク」もディレクターズカット版のみの場面。
自分はディレクターズカット版が劇場公開されたときに映画館に観に行ったのですが、この場面で笑いに近いどよめきが起こったのを憶えています。
怖さを強調しすぎて滑稽になってしまったような節があり、オリジナルの「悪魔の仕業なのかギリギリまで分からないリアルさ」が損なわれて、悪霊エフェクト含めここはなかった方が良かったのではないかと思いました。
◆原作はより宗教色が濃い
映画の脚本も原作者ブラッティが担当していて映画はほぼ原作に忠実な作りでした。
あえて言うなら原作はよりメリン神父のキャラクターが掘り下げられていて、信仰のテーマが強調されているように思われます。
「つまり悪霊の目標は、取り憑く犠牲者にあるのではなく、われわれ…われわれ観察者が狙いなんだと。」
「やつの狙いは、われわれを絶望させ、われわれのヒューマニティを打破することにある。」
こうした部分を読むと何となく旧約聖書のヨブ記が思い出されます。
ヨブ記では…
信仰に厚い人ヨブについて悪魔が「そういられるのは恵まれてるからだ」と評し、それを聞いた神は「ヨブの持ち物を好きにしていい」と悪魔に許可を出します。
そうしてヨブは財産も家族も失い大病を患って…と地獄のような目に遭いながら信仰を試されていきます。
「この世には苦難もあるがそれと対峙してなお善を保てる人間の存在、人間の善性こそ神の作られたもの」というのが信仰ある人の受け止め方なのかなと思いました。(どうしても神様鬼畜すぎるよ!と思ってしまいますが)
◆鬼畜フリードキンだから撮れた傑作
ブラッティはフリードキンのことを「信仰心がない」「だけど正直な人」と評していて、エンディングなど不服に思うところもあったものの映画の出来は認めているようでした。
そしてフリードキンは過去に自ら行った鬼畜エピソードを語る、語る…
・イラクでの撮影では106歳の老婆に6回NGを出してヘトヘトにさせた
・悪魔の声を演じる声優さんをイスに縛り付け、タバコ3箱吸わせて生卵飲ませて演技させた
そんな人が「これは信仰心の映画です」と語っているのが何だか可笑しくて笑ってしまったのですが、そんな情容赦ない徹底したリアル追求主義が超絶真面目な信仰心探求のテーマと上手く溶け合って、「エクソシスト」をただならぬホラーにしたのではないかと思いました。
個人的には信仰悪魔うんぬんよりカラス神父のキャラクターと身内が病気になった辛さを克明に描くドラマの方に心揺さぶられます。
「エクソシスト」の考察は昔読んだ「映画秘宝」の特集が読み応えがあってすごく面白かった記憶があるのですが、部屋を探しても雑誌がどうにも見当たらず、もし見つけたら照らし合わせたいところです。
あとブラッティが監督したという「エクソシスト3」を観てないので、こちらも改めてみたい!と思いました。