「エクソシスト」の原作者ウィリアム・ピーター・ブラッティが原作・脚本・監督を務めた80年の作品。
前から気になっていたのを鑑賞してみました。
登場人物が哲学的な問答を始めるなど演劇的なトーンの作品。
作者の思想が強く打ち出されていて人を選びそうな作品ですが、中身としては真面目でしっとりした人間ドラマ。
「エクソシスト」との共通点も多く併せて観ても面白い作品だと思いました。
山奥に立つ古城の療養施設。そこにはベトナム戦争で精神に異常をきたした兵士たちが集められ治療が施されていた。
患者たちは皆IQの高い者ばかり、仮病なのか、共感能力の高い者に起こった集団感染のようなものなのか…
ある日施設に新任のハドソン・ケーン大佐が精神科医として着任し、彼らの治療を親身に行うが…
犬に劇を演じさせようとする者や、壁を通り抜けようとする者などどこかコミカルな患者たちが登場し、思ったよりも重苦しくない雰囲気。
故意で狂人を演じているのか、無意識に狂気が表出されているのか…安易に判断がつけられない曖昧な境界線は、悪魔憑きなのか精神疾患なのか判然としない「エクソシスト」の描写とイメージが重なりました。
患者の中にはロケット発射直前に発狂したという宇宙飛行士のカットショー大尉がいました。
「エクソシスト」ではリーガンがパーティに来た宇宙飛行士に「お前は宇宙で死ぬ」と突然呟く場面がガクブルものでしたが、ブラッティにとって宇宙は究極の孤独のイメージなのでしょうか。
宗教と相反する科学の世界、誰もいなくて神の慈愛も届かなさそう…と強い恐怖感が伝わってくるようでした。
ケーン大佐は患者たちの奇抜な行動にも向き合い誠実に接しますが、カットショーは反抗的な態度を取り続けます。
ところがある日驚きの事実が発覚します…
(ここからネタバレ)
真面目そうなケーン大佐が1番闇抱えてそう、もしかしてこの人も患者の1人でこの人を治すために造られた施設なのでは…なんて予想してたらこれが半分当たり。
ケーンの正体はベトナムの最前線で大勢の人間を殺戮した〝キラーケーン〟。
「悪人の自分」に耐え切れなくなったケーンは自分そっくりの兄がその罪を犯したということにして、善人の別人格を作り出していたのでした。
病棟で同僚の医師として働いていたフェル大佐がケーンの本当の兄で、「医者として誰かを救う体験をすれば罪悪感から解放されて精神が良くなるかもしれない」…と軍の招集ミスを利用し、兄が弟を助けようと画策していたのでした。
どうみても訳ありっぽい主人公で何となく先の展開が読めてしまったのが残念。
けれど弟を見つめるお兄さんの眼差しが切なく、随所に伏線を張らしてドラマを作っているように感じました。
ケーンの正体にショックを受けたブラットショーは病棟から逃げ出しますが、その先で出くわした暴走族からリンチを受けてしまいます。
そして助けにやってきたケーンも標的に…
このシーンだけトーンが違っていて、いじめのようなネチネチとした暴力描写がみていてしんどい。
結局この世界には一方的に暴力を振るわれるような不条理な出来事もあって、右の頬を撃たれて左の頬を差し出したらタコ殴りにされるだけじゃないか…そんな鬱屈した気持ちにさせられます。
自分が攻撃されても耐えていたケーンですが、カットショーが辱めを受けそうになるとキラーケーンが覚醒。
ジョッキを素手で握りつぶし暴走族どもを血祭りに…
結局暴力なんかい!!とツッコミたくなってしまいますが、仄暗いカタルシスを感じてしまう急激な暴力シーンが展開。
その後古城の病院に戻ったケーンとカットショーでしたが、かねてからカットショーにショックを与えることで彼を正気に戻そうと考えていたケーンは自ら進んで命を断ち、「善なるものがあること」を証明してカットショーを狂気から救い出します。
カラス神父と同じ自己犠牲…なのですが、こちらは唐突で「悪しきものを乗り移らせた」カラス神父のような明快さがなく、しっくり来ない感じがしました。
数年後、正気に戻ったカットショーは再び古城を訪れますが、以前ケーンに譲った「そこにはないはずのメダル」を発見します。
「あちら側に行ったら合図を送る」と答えていたケーンからのサイン…天国/神様はいると悟ってカットショーは安らぎと喜びの表情を浮かべます。
自分はこのラスト懐疑的にみてしまって、本当に超常現象なんだろうか、本人の思い込み/潜在意識的なものじゃないのだろうか…信仰と狂気は紙一重といってはなんだけれど、複雑な気持ちが残るエンディングでした。
小説版の「センター18」ではラストが少し違っていて、メダルをみつける下りはなく、代わりに病院のメンバーのその後が語られていました。
そして看護兵の1人のグローパーがその後戦場に志願し若い兵士たちを庇って亡くなっていたことが明かされています。
映画でも印象的だったグローパー、精神を患った皆の面倒をみることに疲れて悪態をついてケインから叱責されていました。
ある場所では他人に優しくできなかった人間が別の場所では慈愛にみちた行動を示していた…意外な人間が主人公の善なる心を引き継いでいた…
哀しい顛末だけれど余韻が残って、個人的には映画版より小説版のラストの方が感動的に思われました。
映画版のメダルを引き継ぐラストは「エクソシスト」のディレクターズカット版のラストに似ていて、原作通りでないラストに不満を抱いていたブラッティがその想いをこちらにぶつけたのかもしれません。
キリスト教の聖人のメダルに「私は仏教徒」と書かれているのがイカしてると思いました(笑)。
信心深いキリスト教徒のはずのブラッティ、自殺も場合によってはオッケー!?、殺人マシンが同時に善良な医者にも成り得る…と善し悪しの境界線が曖昧で「排他的で厳しいザ宗教」してないのが親しみを感じられるところなのかもしれません。
「エクソシスト」も「エクソシクト3」も神の存在証明云々よりも「絶望の中でも困難に立ち向かう人間の勇敢さや善の面」に感動があったと思うのですが、それは本作でも同じ。
けれど年を重ねる中で親しい人を沢山亡くしたり、あるいは経験したことのない苦難に襲われたりしたら、死後の世界や神の存在を心に求めることがあるのかも…
そういうときに信仰に救われるというのは悪いことではなくて、映画版のラストもハッピーエンドには違いないんだろうと思いました。
映像的には一見地味なようで、巨大な月が昇ってくる冒頭の幻想的な映像だったり、突然トーンの違う暴力シーンが始まったり、「エクソシスト3」同様撮りたい画を大胆に撮っているような感じがして面白かったです。
作者と一緒に思索の旅に出たような気持ちになる映画でした。